"豊かな社会"と"もう1つのアメリカ"
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 04:11 UTC 版)
「アメリカ合衆国の歴史 (1945-1964)」の記事における「"豊かな社会"と"もう1つのアメリカ"」の解説
第二次世界大戦が終わった直後の数年間は白人中流階級にとって概して安定と繁栄の時代だった。アメリカ合衆国はその戦争に向けられた力を急速に消費文化の方向に向けさせた。しかし、消費、郊外および経済の成長は、その繁栄が誰にでも広がっているのではないという事実に影を投げていた。多くのアメリカ人は、アイゼンハワー政権の間も特に老人や非白人の少数民族・人種の間では貧窮の中に暮らし続けていた。 戦後の繁栄の結果として、1950年代の中流階級文化の中心で消費財に対する需要が増し、消費財の多様化と使い勝手の良さが求められ、それに対する広告も増加した。1950年代と1960年代の豊かなアメリカ人は、自動車、皿洗い機、生ごみ処理機、テレビさらにステレオのような生活を豊かにするものを求めた。この時代の繁栄は投資ではなく、消費が推進力だった。 1960年までに自動車による移動距離が増すことで郊外人口は国内の3分の1までに膨れ上がり、デトロイトの自動車製造会社がさらに多くの自動車を生産するに連れて、国外の石油資源に対する依存度も上がっていった。郊外の成長要因は戦後の繁栄の結果としてだけではなく、一戸建て家屋市場の革新も貢献していた。ウィリアム・レビットはロングアイランドで大規模な住宅開発「レビットタウン」を建設するために大量生産方式を使い、国内のトレンドを作った。一方、郊外人口は戦後のベビーブームによっても膨れ上がっていった。郊外であれば大家族向けに大きな家が手に入り、都会よりも安全でありプライバシーが保たれ、消費財を置くスペースも確保できた。 郊外の大半に住めるのはほとんど白人に限られていた。少数のアフリカ系アメリカ人はそこに住むこともできたが、そこに家を持てるような資力のある豊かなアフリカ系アメリカ人にしても公式にしろ非公式にしろ障害に直面した。敢えて郊外に住むことにした数少ないアフリカ系アメリカ人は概して控えめなあるいは明らかな方法で付き合いから遠ざけられていた。地域社会の感覚を売りにしていた郊外住人はその快適性や均質性について後に批判に曝されることになった。実際に郊外には多く同じような年代と経歴を持った住人が住んでいた。
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