"鉄のラーザリ"
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:03 UTC 版)
「ラーザリ・カガノーヴィチ」の記事における「"鉄のラーザリ"」の解説
1935年から1937年まで、カガノーヴィチは運輸人民委員(大臣)として働いた。大粛清の開始前でさえ、彼は「破壊活動家」として何千人もの鉄道管理者や経営者の逮捕を組織化した。 1937年から1939年までは、彼は重工業人民委員であった。1939年から1940年までは、石油工業人民委員を務めた。彼の仕事は、規律の統制とスターリン政策への追従を進めるため、あらゆる所での逮捕と繋がっていた。 1930年代末の全党協議会において、「外国のスパイ」と「サボタージュを行う者」を探し出し、迫害する一層の努力が必要だとの演説を行った。スターリンの命令を実行するうえで、その冷酷無比ゆえに、彼は「鉄のラーザリ」の渾名を付けられた。 これら数年間に死んだ多くの一人に、航空機産業人民委員だったラーザリの兄ミハイル・カガノーヴィチがいた。1940年1月10日、ミハイルはカザンの航空機工場「N24」の工場長に降格させられた。1941年2月、共産党第18回大会の期間、ミハイルはもし工場が締め切りを逃すなら党から追放されると警告された。1941年6月1日、ラーザリからの電話のあと、ミハイルは自殺した。 大祖国戦争(独ソ戦)期、カガノーヴィチは北カフカース及びザカフカース戦線の政治委員(軍事会議メンバー)を務めた。1943年から1944年にかけての彼は再び運輸人民委員を務めていた。1943年、彼は社会主義労働英雄の称号を授与された。1944年から1947年まで、資源開発相であった。1947年、彼はウクライナ共産党第一書記となった。1948年から1952年の間は国家資源供給委員会(Gossnab)議長、そして1952年から1957年は閣僚会議第一副議長(副首相)であった。 カガノーヴィチは1957年まで政治局員及び幹部会員であった。彼はまた、のちのソ連共産党第一書記となるニキータ・フルシチョフの初期の指導者でもあった。フルシチョフは1930年代、カガノーヴィチのモスクワ市における代理人として頭角を現した。1947年、フルシチョフがウクライナの指導的地位を解任され、格下のウクライナ政府首相職に留められたとき、スターリンは彼に代えて(その年に復職するその時まで)カカノーヴィチを派遣した。
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