黒川紀章
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賞歴
- 1965年(昭和40年) - 高村光太郎賞(造型部門)
- 1978年(昭和53年) - 毎日芸術賞
- 1985年(昭和60年) - フィンランド獅子勲章コマンダー
- 1986年(昭和61年) - フランス建築アカデミーゴールドメダル
- 1988年(昭和63年) - リチャード・ノイトラ賞(米国)
- 1989年(平成元年) - 世界建築ビエンナーレ・グランプリ・ゴールドメダル、フランス芸術文化勲章シュヴァリエ
- 1990年(平成2年) - 日本建築学会賞作品賞(広島市現代美術館)
- 1992年(平成4年) - 日本芸術院賞(奈良市写真美術館)
- 1999年(平成11年) - 都民文化栄誉章
- 2002年(平成14年) - 国際都市賞(スペイン、メトロポリス協会)
- 2003年(平成15年) - フランス芸術文化勲章オフィシエ、第1回世界都市賞
- 2006年(平成18年) - 文化功労者
- 2007年(平成19年) - 正四位旭日重光章(逝去後の叙位・叙勲)
名誉会員
海外の学会における顕彰を受けており、
である。
都市計画への取り組み
他の丹下研究室出身の建築家と同様、“都市”について意識的な建築家である。東京計画1960は磯崎新とともに主担当したが、それまでは丹下研究室での設計実務も磯崎とともに極力拒否していた[11][12][13]。
ポンピドゥ・センターのコンペでドミノ1971を提案し、大阪府立国際会議場のコンペでスーパードミノ2000を提案した[14]。
以下に手がけた具体的事案を「主な都市計画」、構想を「主な都市構想」、で示す。
主な都市計画
- 1959年(昭和34年) - 戸山ハイツ計画案
- 1962年(昭和37年) - 磯子団地計画
- 1964年(昭和39年) - 堺・泉北臨海工業地帯緑地計画
- 1964年(昭和39年) - 札幌大通公園改造計画
- 1965年(昭和40年) - 丸亀市法定都市計画案策定[15]
- 1966年(昭和41年) - 愛知県菱野ニュータウン基本計画
- 1967年(昭和42年) - 藤沢市西部開発湘南ライフタウン
- 1968年(昭和43年) - 佐倉市都市計画策定
- 1968年(昭和43年) - 北湘南開発基本計画
- 1969年(昭和44年) - 根岸駅前再開発計画
- 1969年(昭和44年) - 鴻巣ニュータウン基本設計
- 1970年(昭和45年) - 小田急奥蓼科あけぼの計画インスタントビレッジ
- 1970年(昭和45年) - 川崎駅前再開発計画
- 1971年(昭和46年) - 清川村総合計画
- 1971年(昭和46年) - 鳥取駅前再開発
- 1971年(昭和46年) - 国鉄飯田町操車場再開発基本構想
- 1973年(昭和48年) - 稲山総合開発計画
- 1974年(昭和49年) - 南青山一丁目再開発計画、
- 1979年(昭和54年) - イタリアヴァスト市とサンサルヴォ市都市計画のほか、リビア・アー・サリール・ニュータウン(1979年(昭和54年) - 1984年(昭和59年))
- カザフスタン新首都アスタナ計画
- シンガポール実験特区フュージョンポリス
- マレーシア・バイオバレー都市計画
- タンザニア新首都計画
- 中華人民共和国・杭州市都市計画設計競技
- 中国・鄭州市のマスタープラン(河南省新都市)
- 中国・焦作市新都市都市計画
- 中国・上海嘉定新都市都市計画
- 中国・昆明市新空港都市都市計画
主な都市構想
- 1959年(昭和34年) - 新東京計画案:50年後の東京
- 1960年(昭和35年) - 垂直壁都市 丸の内再開発計画
- 1960年(昭和35年) - 農村都市計画
- 1961年(昭和36年) - 東京計画1960サイクルトランスポーテーションシステム
- 1961年(昭和36年) - 霞ヶ浦計画
- 1961年(昭和36年) - 丸の内業務地域再開発計画
- 1961年(昭和36年) - 東京計画1961<ヘリックス計画>
- 1962年(昭和37年) - 箱型量産アパート計画
- 1962年(昭和37年) - 西陣地区再開発計画
- 1965年(昭和40年) - メタモルフォーゼ計画1965
- 1966年(昭和41年) - 山形HD計画
- 1969年(昭和44年) - 海洋工業基地メタボナート'69
- 1976年(昭和51年) - 吉備高原都市計画
- 1987年(昭和62年) - 東京計画2025[16](グループ2025)
- 1989年(平成元年) - ニーム副都心計画コリゼ
政治活動
概要
かねてから日本会議で代表委員を務めるなど、保守派の論客として知られていた。2007年(平成19年)に共生新党を発足して党首に就任し、4月の東京都知事選挙、7月の第21回参議院議員通常選挙に出馬したが落選した。建築で世界的に著名な人物の初出馬は、派手なパフォーマンスが世間の注目を集めた。
建築家磯崎新は黒川の死後、彼の立候補によるアイデア表明はメディア型建築家として当然のことと見なし「(都知事選の)マニフェストは群を抜いていた」「そのアイデアは誰かが実現させることだろう」と述べた[17]。
東京都知事選
経緯
2007年(平成19年)2月21日、「石原氏とは親しいが、議会無視、側近政治、無意味な五輪招致など目に余る」と2007年東京都知事選挙に出馬を表明。本人は石原を応援していた8年前から出馬を考えていたと発言した。3月16日には共生新党を立ち上げた。
主要4候補の一人としてテレビ討論に出演するなどメディアに取り上げられるも落選(票数:159,126、得票率:2.9%)。
選挙翌日のフジテレビのインタビューでは、浅野史郎が敗因や感想を述べ総括をしていたのとは対照的に、都政の具体的な話題に熱弁をふるい、次の都知事選に触れた。
選挙の2日後に、共生新党として参院選に出馬する意志があることを明らかにした。
マニフェスト
以下は2007年(平成19年)3月5日に都庁で発表したマニフェストである。
- 任期中の給与は1円。
- 東京都庁舎や、江戸東京博物館、東京国際フォーラムの民間売却。
- オリンピック招致中止。
- 学校現場での日の丸・君が代の強制を改める。
- 築地市場の豊洲新市場移転は反対。
- 東京23区の市昇格を行い、行財政権力を強化する。
- 首都機能の一部を移転し、霞が関に緑地を増やす。
都知事選立候補時の記者会見では、日本会議で代表委員も務めた保守派言論人というイメージにもかかわらず、「僕は社会主義に対する幻影がいまだにある。具体的に支援しているのは中国。ロシアは本気で亡命しようとしたこともあった」と発言して話題となった[18]。
パフォーマンス
自らがデザインした円形のガラス張り選挙カーを使用、クルーザーから手を振る、ヘリコプターで都知事選候補者では初めて離島へ向かうなどの選挙活動を黒川自らが「陸海空作戦」と称した。当初は飛行船から桜吹雪を撒き散らすというアイデアもあったが、選挙管理委員会の許可が下りなかった。
他の主要候補者が演説している場所に突然現れ、対話しようとする選挙活動を一部のメディアが「奇襲作戦」と称した。選挙戦の最終日は新宿西口で演説中の石原慎太郎候補の近くに来て、「石原裕次郎の名前を出さないと当選できない石原慎太郎さんには、この歌を送ります」といい、妻と共に石原裕次郎の「銀座の恋の物語」を歌った。しかし、その後は夫婦で石原の演説に聞き入り、最後に拍手を送っていた。
参議院選挙
結果
- 黒川 - 得票70275、投票率1.16%
- 共生新党 - 得票総数146,986.951、得票率0.25%
主張
- 命を守る安全な日本をつくります。
- 老後も安心して生活できる年金、医療、福祉を最重点政策とします。
- 格差の是正
- 教育
- 経済と文化の共生
- ^ http://www.tdb.co.jp/tosan/syosai/3992.html
- ^ “銀座・中銀カプセルタワー12日から解体工事 竣工50年黒川紀章氏設計 80超える譲渡オファー”. 日刊スポーツ (2022年4月9日). 2022年4月9日閲覧。
- ^ 京大(西山)から東大(丹下)のもとへ行くきっかけについては、公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会 編集アステイオン88,「西山夘三と丹下健三の間にある溝」藤森照信─「黒川紀章氏が述懐する丹下健三」『新建築』[1]など
- ^ 「都市デザイン」(1965年、紀伊國屋書店) ISBN 978-4314006583「メタボリズムの発想」(1972年、白馬出版) 「都市の思想」(1977年、白馬出版)
- ^ “黒川紀章 死ぬ直前まで妻・若尾文子にがん明かさず 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)”. web.archive.org (2013年1月25日). 2020年5月23日閲覧。
- ^ “『メディア・モンスター 誰が「黒川紀章」を殺したのか』みんなに伝えなくちゃ… 麻木 久仁子”. 2020年5月23日閲覧。 “実は選挙戦の最終日、黒川氏は倒れて救急搬送されていた。末期がんだった。救急車の中で「みんなにもっと伝えなくちゃいけないことがあるのに」と何度も呟いていたという。”
- ^ “都知事選で思い出す奇才・故黒川紀章氏 – 東京スポーツ新聞社”. 東スポWeb – 東京スポーツ新聞社. 2020年5月23日閲覧。 “都知事選出馬を決めた黒川さんが、実はその約1年前にがんの摘出手術を受けていたのを関係者から聞いた”
- ^ 死因は当初、多臓器不全と報道された[2]。
- ^ 山川晶之 (2022年4月15日). “解体始まる「中銀カプセルタワービル」を丸ごと3D化 保存プロジェクトがスタート” (日本語). ITmedia 2022年4月17日閲覧。
- ^ 共同通信 (2022年3月28日). “カプセルタワービル解体へ 4月、黒川紀章さんの傑作 | 共同通信”. 共同通信. 2022年4月12日閲覧。
- ^ 豊川斎赫『群像としての丹下研究室 : 戦後日本建築・都市史のメインストリーム』オーム社 2012、広瀬麻美 [ほか] 編『メタボリズムの未来都市 Metabolism, the city of the future』新建築社 2011
- ^ 内井昭蔵ほか『モダニズム建築の軌跡──60年代のアヴァンギャルド』ISBN 978-4-87275-096-6 LIXIL出版 2000年
- ^ [3]ユネスコの庭園の仕事などは手掛けていた
- ^ GA JAPAN 44
- ^ 都市計画協会として手がけたものである。
- ^ “東京計画 2025”. 2023年10月19日閲覧。
- ^ 黒川紀章さん追悼 建築家・磯崎新 日本初のメディア型建築家
- ^ “超プッツン発言連発 失笑かう黒川紀章氏”. J-CAST. (2007年3月19日) 2016年10月28日閲覧。
- ^ http://higashibgv.com/page1
- ^ 黒川紀章がThinkPadを語る! - 「早く人間に追いついてみろ!」(ASCII24)
- ^ 黒川紀章氏が急死…妻・若尾へ最後の言葉「本当に好きだった」(SANSPO.COM)
- ^ トップは急死した「黒川紀章 死去」~ヤフー検索ランキング(RBB TODAY 2007年10月17日)
- ^ 黒川紀章事務所が民事再生、海外設計料回収できず
- ^ “黒川紀章事務所が民事再生法適用を申請”. 日本経済新聞. (2014年12月15日) 2014年12月19日閲覧。
- ^ “大型倒産速報 建築設計事務所 株式会社黒川紀章建築都市設計事務所民事再生法の適用を申請 負債12億円”. 株式会社帝国データバンク. (2014年12月15日) 2014年12月19日閲覧。
- ^ うち・長男の息子・黒川未来夫(くろかわ・みきお)は前述の経営破綻した設計事務所の会社代表。
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