北陸鉄道金沢市内線 運行系統

北陸鉄道金沢市内線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 16:55 UTC 版)

運行系統

1962年時点で設定されていた運行系統は下表の6系統である[59]。系統番号は金属の系統板に描かれ、車両前面に掲出されて運行された[73]

番号 系統板 区間 特記事項
1 円形:赤地に白字 小立野 - 公園下 - 橋場町 - 武蔵ヶ辻 - 金沢駅前 車両は小立野 - 金沢駅前 - 寺町 - 金沢駅前 - 小立野と運行
2 円形:黒地に白字(1系統の裏) 金沢駅前 - 武蔵ヶ辻 - 香林坊 - 寺町
3 四角:白地に黒字 小立野 - 公園下 - 香林坊 - 野町駅前 車両は小立野 - 野町駅前 - 鳴和 - 野町駅前 - 小立野と運行
4 四角:青地に黄字(3系統の裏) 野町駅前 - 香林坊 - 武蔵ヶ辻 - 橋場町 - 鳴和
5 逆三角形:黄地に青字 寺町 - 香林坊 - 公園下 - 橋場町 - 鳴和 - 東金沢駅前 20時まで運行。以後終電までは4系統を東金沢駅前まで延長
6 四角形の四隅を切った八角:白地に赤字 公園下 - 香林坊 - 武蔵ヶ辻 - 金沢駅前 朝ラッシュ時のみ運行

運賃の推移

金沢電気軌道による市内線開業時より運賃制度区間制であり、1区3銭に始まり最長の乗車で片道9銭を要した[12][15]。これを1927年(昭和2年)2月11日付の料金改定で均一制に改め、片道5銭・往復9銭均一と定めた[15]。この料金改定は早朝割引券や回数乗車券の値下げも伴っており、当時の不況に対応するための実質的な運賃値下げであった[15]

北陸鉄道発足時も5銭均一運賃が維持されていたが、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)7月に10銭均一に値上げされる[74]戦後インフレ期には値上げが相次ぎ、1946年(昭和21年)3月30銭、翌1947年(昭和22年)4月40銭、同年7月1円、1948年(昭和23年)3月1円50銭、同年6月2円50銭、同年8月5円と、2年5か月で約17倍に引き上げられた[75]

1950年代に入ると1950年(昭和25年)11月改定で5円均一から6円均一となる[76]。さらに翌1951年(昭和26年)10月に8円、1952年(昭和27年)4月には10円へと値上げされた[76]。さらに1955年(昭和30年)12月からは13円均一へと改訂された[39]

この13円均一運賃は8年間据え置かれたが、高度経済成長に伴う人件費・諸経費増加と釣り合わなくなり会社経営を悪化させる一因となったため、1963年(昭和38年)12月より15円均一に値上げされた[52]。この運賃が4年後の市内線廃止まで維持されている[74]

車両

以下、金沢市内線で使用されていた車両について、前身金沢電気軌道時代を含めて記述する。

木造単車

金沢電気軌道開業時の木造単車。手前は7号(1919年6月撮影)
デ30形 (30 - 49)・デ60形 (60 - 69)・デ80形 (80 - 99)
金沢電気軌道市内線開業時からの木造単車であり、1919年(大正8年)1月に20両(旧番号:1 - 20)、1920年(大正9年)3月に10両(旧番号:21 - 30)、1921年(大正10年)4月20両(旧番号:31 - 50)の順でいずれも汽車製造にて製造された[73]。製造年による違いはほとんどなく、長さ8.876メートル・幅2.235メートル、側面ドアのないオープンデッキ(後からドアが取り付けられた車両もある[77])およびダブルルーフ(二重屋根)構造の車体にブリル21E形台車を履くという形態であった[73]。定員は40人[73]。車体の色は当初は赤色だったが早い時期に緑色一色に改められた[73]1927年(昭和2年)、製造順ごとにデ30形30 - 49・デ60形60 - 69・デ80形80 - 99へと改番された[77]
1932年(昭和7年)にデ60形4両・デ80形6両、1942年(昭和17年)にデ30形5両が半鋼製のモハ300形へ改造される[73][77]。次いで1944年(昭和19年)にデ80形3両が呉市電へ譲渡され呉市電80形となった[77][78]
戦後1949年(昭和24年)に記号を「デ」から「モハ」に改める[73]。同年7月の車庫火災では7両が焼失[14]。その後もモハ60形や半鋼製単車モハ310形への改造が生じて番号が不揃いとなったため、残存車は1953年(昭和28年)にモハ50形 (51 - 59) に整理されたが[73][14]、1963年時点では別の車体に載せ替えた事業用車59号が残るのみであった[73]1964年(昭和39年)廃形式[14]
上記モハ60形 (60・61) はデ87・デ94の2両を木造車体のまま改造したもので、ドアを折り戸から引き戸に直し、車体幅を広げて定員を46人としたもの[73]。1963年時点では60は休車、61は事業用車扱いであった[73]
デ400形 (401 - 406)
北陸鉄道発足後に名古屋市電から転入した3形式のうちの一つ。6両あり、デ400形401 - 406とされて1947年(昭和22年)にまず401 - 403の3両が松金線用、404 - 406が金石線用として認可を受けた[14]。1949年になって市内線へ転入[14]。車庫火災で401・403の2両が焼失し、残った4両が1949年の一斉改番でモハ170形 (171 - 174) となった[14]1951年(昭和26年)全車廃車[14]
名古屋市電ではLSC形343 - 348(1923年製)とされた車両[73]。1941年度に連接車2600形への改造名義で廃車された単車15両 (338 - 352) に含まれるが[79]、名古屋側の資料によると廃車の6両を整備して売却したという[80]。他の名古屋市電からの転入車と同様、金沢でも上部クリーム色・下部濃緑色の塗装で運転された[73]
デ500形 (501・502)
デ400形と同じく名古屋市電から1947年に転入した車両[73]。名古屋市電の1号が501、2号が502として転入するが、1949年の車庫火災で501は廃車となる[73]。一斉改番で502はモハ160形 (161) となった[73]。同車も1951年に廃車されている[73]
名古屋側の資料によると桑名電軌から名古屋市電に転入した車両 (1・2) を整備の上売却したとされる[81]
デ600形 (601・602)
元は京都市電の狭軌1形電車(いわゆる「N電」)[73]。名古屋市電経由で1947年に2両が転入、旧番号N81が601、旧番号N106が602となり、一斉改番でさらにモハ150形 (151 - 152) となった[73]。1951年2両とも廃車された[73]

半鋼製単車

モハ200形 (201 - 205)
金沢電気軌道時代の1931年(昭和6年)に導入された、市内線で最初の半鋼製単車ある[73]。メーカーは藤永田造船所[73]。長さ8.88メートル・幅2.23メートルと寸法は在来の木造車とほぼ同一だが定員は48人となった[73]。1949年の車庫火災により203は廃車[14]。残る4両は1966年(昭和41年)までに廃車された[14]
車体塗装はモハ300形・モハ310形とともに緑(ダークグリーン)の単色であった[67]
モハ300形 (301 - 315)
木造単車から流用した台車・電装品にモハ200形と同形態の半鋼製車体を載せた車両である[73][14]。まず金沢電気軌道時代の1932年(昭和7年)にデ60形4両 (64-66・68) とデ80形6両 (81・85・89・91・93・95) から機器を流用し、藤永田造船所で10両 (301 - 310) 製造される[73]。次いで1942年(昭和17年)、デ30形5両 (30 - 34) からの流用品で5両 (311 - 315) 追加された[73]。2次車は東京工業所製である[73]
1965年(昭和40年)に309が脱線転覆事故を起こす[55]。これを契機に廃車が進められ、路線廃止まで残存したのは4両だけであった[14]
モハ310形 (316 - 320)
5両に導入された半鋼製単車で、長さ8.8メートル・幅2.23メートルはモハ300形と同じだが定員が40人と少ない[73]。元は1947年より松金線で使用されていたモハ600形 (601 - 605)[14]。前歴をさかのぼると1925年に三重県の朝熊登山鉄道が導入した車両であり、これが名古屋市電経由で北陸鉄道に転入してきた[14]1953年(昭和28年)に5両とも車体幅を詰めモハ30形から転用した台車・電装品に振り替えるなどの改造が加えられ、松金線から市内線へ転属した[14]。この車両は書類上では機器を提供したモハ30形の改造扱いとされており、モハ600形側は廃車手続きがとられている[14]
揺れが激しく乗客の評判が悪かったといい、稼働機会が徐々に減って[73]1964年に316 - 318の3両が廃車され、事業用車扱いとなった319・320も1965年に廃車された[14]

ボギー車

モハ2000形 (2001 - 2010)
金沢市内線初のボギー車[73]。1949年11月22日に初めて運転され、翌年3月までに計10両導入された[38]。メーカーは近畿車輛[82]。全長10.5メートルとボギー車としては小型で[82]、車体幅も2.2メートル[82]である上に急カーブ対応のため車体の前後が絞られており細く見える[73]。定員70人[73]
モハ2100形 (2101 - 2112)
モハ2000形に続いて1951年(昭和26年)12月に広瀬車両で製造された車両[83]。全長が11.0メートルに伸び、ドア位置が車体前後から車体前・中点対称の配置に改められた[83]。定員は70人[73]
モハ2200形 (2201 - 2206)
モハ2100形に続く形式で、1956年(昭和31年)2201・2202、1957年(昭和32年)2203 - 2205、1958年(昭和33年)2206の順で製造された[84]。メーカーは6両とも日本車輌製造[85]主電動機数が在来車の1両2基から1両4基に増強され[85]、ほかにも遮断器 (LB) 付き制御器やブレーキ弁の操作角度に応じてブレーキ力が調整されるセルフラップ式ブレーキの採用など新機軸が採用されている[84]。定員は70人[73]
モハ2300形 (2301・2302)
市内線最後の新造車両であり、1961年(昭和36年)3月日本車輌製造にて製造された[86][87]。1両4基の主電動機やセルフラップブレーキをモハ2200形と同様に採用するとともに、新たに間接制御方式・常用電気ブレーキを採用し、弾性車輪とエリゴバネを用いた新型台車を履く高性能車であった[87]。定員は70人[73]
モハ2050形 (2051)
武蔵中央電気鉄道東京都八王子市)の1形を前歴とする車両[88]。同社の8号が1938年(昭和13年)に北陸鉄道金石線の前身・金石電気鉄道に転入し、北陸鉄道モハ1101となった後、1951年に金石線から金沢市内線へ転籍した[88]。市内線転籍に際し、車体の前頭部を絞るなどの改造を受けている[89]。定員は64人[73]
モハ2060形 (2061・2062)
琴平参宮電鉄香川県)のデハ80形を前歴とする車両[90]。路線廃止に伴い1963年(昭和38年)に北陸鉄道が2両購入し[89]、81を2061、83を2062とした[90]。しかし車体幅が広く急曲線の多い金沢市内線には適さないことから、1964年(昭和39年)に自社工場で車体を新造した上で使用を開始した[89]

ボギー車の車体塗装は、旧塗装が上部クリーム色・下部マルーンのツートンカラー、新塗装が下部をピンクに塗り替えたツートンカラーであった[67]

備考

集電装置について

車両の集電装置は開業以来トロリーポールであったが、1950年にモハ170形にてビューゲル交換の試験が行われ、同年12月1日よりボギー車モハ2000形を含む全車のビューゲル化が完了した[59][73]。なおボギー車のうちモハ2100形・モハ2200形・モハ2300形は新造時からパンタグラフを搭載した[73]

廃線後の車両譲渡

路線廃止後、33両在籍したボギー車のうち17両が名古屋鉄道(名鉄)へ、2両が豊橋鉄道へ、3両が福井鉄道へとそれぞれ転出した[90]。転出後の形式名・番号との対照は以下の通り[90]

北陸鉄道での形式名・番号 移籍先での形式名・番号 譲渡年月
モハ2000形2001 - 2010 名鉄モ550形550 - 559 1967年7月
モハ2100形2107 名鉄モ530形531 1968年3月
モハ2200形2201 - 2206 名鉄モ560形561 - 566 1968年3月
モハ2300形2301・2302 豊橋鉄道モハ300形301・302
(後のモ3300形3301・3302)
1967年5月
モハ2050形2051 福井鉄道モハ500形501 1967年9月
モハ2060形2061・2062 福井鉄道モハ510形511・512 1967年9月

名鉄へ移籍した17両はいずれも名鉄岐阜市内線で使用されたが、1997年(平成9年)までに全車廃車された[84]。豊橋鉄道へ移った東田本線(市内線)で運用ののち2両そろって2000年(平成12年)に廃車[91]。福井鉄道へ転出の2両は福武線の福井市内区間で運用されたが、1969年(昭和44年)に移籍2年で廃車となる[89]。その福井鉄道は名鉄で1988年に廃車となったモ560形562(旧モハ2200形2202)を購入し[84]、イベント用車として2006年(平成18年)まで保有していた[92]

単車で他の事業者へ移籍したものはない。単車のうちモハ200形202・205とモハ300形304・308・315の5両は石川県水産課が買い取り[93]、1967年5月30日、金石港沖9.5キロメートルの海底に魚礁として沈めた[94]

保存車

路線の廃止後、以下の車両が寄贈・売却された[93]。なおこれらの車両は一切現存しない[95]

  • モハ300形301 : 石川県立児童会館(金沢市出羽町)へ寄贈
  • モハ300形302 : 小立野児童公園(金沢市小立野)へ寄贈
  • モハ300形305 : 石川県立養護学校(野々市町)へ寄贈
  • モハ300形310 : 野々市町の個人へ売却
  • モハ300形311 : 金沢市内の個人へ売却
  • モハ2100形2108 : 幼稚園へ売却
  • モハ2100形2110 : 生コン工場へ売却

車両のうち一両は1967年(昭和42年)に開業した金沢市西金沢二丁目の飲食店「青電車」で店舗として使用されていたが、10年後に窓などが錆びたためやむなく撤去され、同店では同じ場所にカウンターやテーブル席を設けた高さ3mの緑色の車両レプリカを設置している[2]

そのほか、他の事業者へ移籍した車両の中に保存されているものが存在する。一つは名鉄経由で福井鉄道に渡った旧モハ2200形2202(モ560形562)で、2006年にJR貨物グループのジェイアール貨物・北陸ロジスティクスが引き取り富山県の伏木駅に運び込まれた[67]。旧モハ2200形では名鉄で廃車後譲渡された車両も2両あり[84]、うち1両(旧2203)が静岡県掛川市に残る(2009年時点)[95]。豊橋鉄道へ渡った旧モハ2300形は2両とも2000年に鉄道総合技術研究所の試験車となり、その後1両(旧2302)のみ栃木県の「那珂川清流鉄道保存会」に引き取られた[67]


注釈

  1. ^ 金石電気鉄道は1920年10月に金沢駅裏の中橋駅まで延伸されている。
  2. ^ 兼六園下から兼六園に沿って小立野台地へと登る坂を兼六坂という。坂のある道路の沿道は尻垂坂通という町名であったが、町民の請願で1958年兼六通へと改称。坂の名前も昭和40年代に尻垂坂から兼六坂へ変わった(以上『角川日本地名大辞典』17 石川県 363・472頁による)。
  3. ^ 1968年10月郊外の金沢市割出町へ移転(『北鉄の歩み』217頁)。
  4. ^ 市内線廃止後の1970年旅客営業廃止、1972年貨物営業廃止で石川線白菊町 - 野町間は廃線となった。

出典

  1. ^ a b c d ちょっと昔の金沢”. 金沢くらしの博物館. 2021年12月20日閲覧。
  2. ^ a b 青電車飲食店に「停車」 金沢市電模した目を引く外観 廃線直後は本物、今はレプリカ”. 北國新聞. 2021年12月20日閲覧。
  3. ^ a b 『金沢市史』通史編3 380-384頁
  4. ^ a b c 『北鉄の歩み』16-22頁
  5. ^ a b c d 『金沢市政概要』昭和5年版202-205頁。NDLJP:1278873/139
  6. ^ a b c d e 『北鉄の歩み』22-28頁
  7. ^ 『金沢市要覧』7-8頁。NDLJP:945172/7
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『日本鉄道旅行地図帳』6号29・31頁
  9. ^ 金沢市図書館蔵『金沢電車案内』(1919年4月金沢電気軌道発行)に収録の「金沢市街電車線路図」を元に記述
  10. ^ a b 金沢市図書館蔵「金沢市街地図」(1948年池亮吉編集・発行)を元に記述。
  11. ^ a b c d e f g h i 『金沢市史』通史編3 391-398頁
  12. ^ a b c d 『北鉄の歩み』32-35頁
  13. ^ 『金沢市政概要』昭和5年版218-219頁。NDLJP:1278873/148
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 『鉄道ピクトリアル』通巻902号126-133頁
  15. ^ a b c d e f g h i 『北鉄の歩み』40-46頁
  16. ^ 官報』1926年4月7日付。NDLJP:2956234/7
  17. ^ 『官報』1929年12月11日付。NDLJP:2957353/11
  18. ^ a b 『北鉄の歩み』38-40頁
  19. ^ 『北鉄の歩み』88-90頁
  20. ^ 『北鉄の歩み』75-78頁
  21. ^ 『金沢市統計書』大正14年版第3編32-35頁。NDLJP:1710141/23
  22. ^ 『金沢市統計書』昭和5年版第3編44-49頁。NDLJP:1710248/28
  23. ^ 『金沢市統計書』昭和10年版259-260頁。NDLJP:1451667/154
  24. ^ a b 『北鉄の歩み』48-50頁
  25. ^ 『金沢市史』現代篇上巻715-716頁
  26. ^ 『金沢市統計書』昭和10年版264頁。NDLJP:1451667/156
  27. ^ a b 『北陸地方電気事業百年史』185-187頁
  28. ^ 『北陸地方電気事業百年史』283-287頁
  29. ^ a b 『北陸地方電気事業百年史』399-403頁
  30. ^ a b 『北陸地方電気事業百年史』405-406頁
  31. ^ 『北陸地方電気事業百年史』414-415頁
  32. ^ a b 『北鉄の歩み』56-57・92-94・99頁
  33. ^ a b c d e f 『北鉄の歩み』94-99頁
  34. ^ 『北鉄の歩み』324頁(巻末年表)
  35. ^ 『官報』1944年4月21日付。NDLJP:2961681/11
  36. ^ a b c 『北鉄の歩み』101-102頁
  37. ^ 『北鉄の歩み』107-108頁
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  50. ^ a b c 『金沢市史』現代篇下巻377-379頁
  51. ^ a b c d 『金沢の都市と交通』57-63頁
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  57. ^ a b c d e f g h i 『北鉄の歩み』200-205頁
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  63. ^ a b c d e 『日本歴史地名大系』17 石川県の地名 349頁
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  69. ^ 『角川日本地名大辞典』17 石川県 701頁
  70. ^ 『角川日本地名大辞典』17 石川県 1006頁
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  81. ^ 『なごや市電整備史』47-48・128頁
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  89. ^ a b c d 『鉄道ピクトリアル』通巻257号56-62頁
  90. ^ a b c d 『鉄道ピクトリアル』通巻319号126-128頁
  91. ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻688号188-191頁
  92. ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻852号194-200頁
  93. ^ a b 『鉄道ファン』通巻74号67頁
  94. ^ 『北鉄の歩み』204-205頁
  95. ^ a b 『鉄道ピクトリアル』通巻852号121-124頁






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