クイズ100人に聞きました 補足

クイズ100人に聞きました

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/21 02:34 UTC 版)

補足

  • 番組開始当初から1982年3月までは、YKKの一社提供[注 18] で、「YKKファミリーアワー」というオープニングキャッチがあった(ナレーションは伊武雅刀で「YKKがお送りします」とコメント)。エンディングの提供読みは「この番組はファスナーとアルミ建材のYKK 吉田工業・吉田商事の提供でお送りしました」だった。ヒッチハイクとしてヤクルト本社ライオンのCMが流されており、そのうちライオンは1982年4月からはYKKとの二社提供として本提供に参加。さらに1984年10月から4、5社提供に移行後もYKKとライオンは筆頭スポンサーに連ねたが、1991年9月をもってYKKは撤退。1991年10月以降はライオンを筆頭に、カプコン日本タッパーウェア日本ハムなど複数社となった(複数社提供移行後のオープニング提供読みはナレーションの橋本テツヤが担当)。[注 19]
  • この番組は、門戸が狭い視聴者参加のクイズ番組の一つに挙げられていた。実際1980年代前半には競争率1000倍(1983年8月24日スポーツニッポン内の記事より)にもなったといわれている。
  • センターの早押し台の早押しボタンは、赤色のマーカーランプが使用されているが、このランプの透明プラスチックカバーの中に電球が入っており、早く押すと電球が点く仕組みになっている。過去の放送の中には本番中に早押しボタンを押す際に勢いをつけ過ぎて、ボタンが根元から外れるハプニングがあった。1回は最終問題だったため事なきを得たものの、もう1回は最初の問題で発生したので、スタッフが修理してその後再開した。またボタンが大きかったため、SAMBA・TVで矢口真里が早押しボタンを押す際、ボタンの横を叩いてランプが点かず、対戦相手の中尾美樹に押されてしまうハプニングがあった。
  • セットの9分割スクリーン(リアプロジェクション式9画面マルチスクリーン)の作り方、操作方法は(1975年までTBS系列で放送していた)ABC製作のクイズ番組『霊感ヤマカン第六感』のスタッフに作り方を聞いて作られたものであった。「家族対抗クイズ合戦」時代の初期は画面の切り替わりが一旦消灯して再表示するしくみだったが、後にフェード表示で切り替わるしくみに変更された。消灯した時点で正解か不正解かがわかってしまい面白みが減ることを防ぐためと思われる。東海テレビ家族対抗チャンスクイズ」でも使用された(こちらは、「霊感…」同様に一旦消灯して再表示するものだった)。
  • マスコットとして「百太郎(ひゃくたろう)」が番組開始当初から設定されていた。当初はイラストばかりだったが後に着ぐるみが作られ、スタジオやロケなどに登場するなど活躍していた。百太郎はホッキョクギツネであるが、「これは何の動物だと思うか」という問題が出題されたことがある(多くの人が思った答えを当てる)。
  • 1回だけトラベルチャンス中にニュースが番組を中断して挿入されてしまい、次番組『わいわいスポーツ塾』以降の番組が10分繰り下がってしまったことがあった。他系列の同時ネット番組が無いJNN系列ならではのエピソードである。
  • 番組では答えが1つになる問題を探したり、毎年プロ野球のペケチーム予想(今年優勝しそうもないチームの予想)を行っていた。死者に鞭を打つと困るためトップのチームは公表しなかったが、残りのチームが全て出ているほか、関口がペケチームの親会社に引っかけたオチを言う(例・ロッテオリオンズ(当時)の場合「ロッテのガムでも噛んで頑張っていただきたい。」1990年4月2日放送分)ため、結局は分かってしまう。
  • 「耳の大きな動物といえば?」という問題で全部の回答が開いて合計が99だったということがあった。「じゃあ、残り1つはなんだったんでしょう?」と回答外の答が紹介されたことがあった。残り1つは「江川卓」だった。
  • 1979年4月2日放送の第1回は、当時プロボクシング世界チャンピオンで8度目の防衛戦を1週間後に控えていた具志堅用高の家族(テロップでは「協栄ジム 具志堅チーム」)と一般人家族の対戦だった。「トラベルチャンス」は具志堅チームが挑戦したが、第1回早々海外旅行獲得はならず、失格となった。このときの橋本の関口紹介のコメントは「進行は、100人に聞いた結果選ばれた関口宏(この時は「せきぐちー」とは伸ばさなかった)」で、その後の関口の第一声は「いよいよ始まりました。この春最大の話題を呼んだ『クイズ100人に聞きました』でございます。」であった。この回で出題された「しりとりで卵と言ったら次は何?」という問題は12年後の600回記念でも出題された。また、具志堅は最終回にも「ボクシングチャンピオンチーム」として出場した。
  • 1981年ごろ、山田邦子も芸能界デビュー前に家族で挑戦したが予選で敗退した。またこの頃、芸能界デビュー前の山口美江が出題用の街頭アンケートに答えている。山田は後に芸能界に入る前、父から芸能界に入ることを反対されて、山田が芸能界に入る際に関口が懸命に山田の父を説得し最終的に認められたという逸話がある。現在も山田に取って関口は恩人である。
  • 1984年ごろ、島田奈央子(島田奈美)もアイドルとしてデビューする前に一家で番組に出場した。[注 20]
  • 1986年12月29日放送で、当時自民党所属(現在は立憲民主党所属)の小沢一郎衆議院議員(『学校別大学OB大会』で、慶應義塾大学の出身として出演)も解答者として出場したことがある。
  • 1987年12月28日放送の第450回では本放送期間中で唯一の同点決勝があった。最終問題が終わった時点で同点となったため。万が一同点の場合に備えての決勝問題が通常問題とは別に用意されていた。最終回ではこのときの決勝問題をそのまま流用して通常対戦を行った。
  • 1988年頃、通称「屋根裏のアナウンサー」こと、ナレーターの橋本テツヤの声が「怖い」という投書が全国各地から番組宛に寄せられたことを番組冒頭で紹介。司会の関口は秋田県と山形県からだけはそういった投書が一通も来なかった旨を話し、「スタッフが調べました。秋田と山形では番組をやっていなかったんですねー。」と話したことがある。
  • フジテレビのバラエティ番組『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』で、本家がOA中にもかかわらず番組のパロディがOAされた(タイトルは「クイズ5,6人に聞いちゃいました」)。司会役は関口に扮した内村光良(その時の役名は"関ロせきろ(カタカナの「ロ」)宏")であったがなんとゲリラで関口本人が登場し、司会を務める。南原扮する加山くわやま雄三が関口に対して「僕はあれを見てみたいんだね」と例の肘を付く仕草を催促したところ、一見同じように見えるセットが本物に比べて高さが少し高かったらしく、「高いんだよ」と指摘したり、内村扮する関ロに対して司会ぶりや進行振りのダメ出しを行った。
  • 1992年7月20日放送の第675回では対戦チームの苗字がいずれも「鈴木」だった(TBSチャンネルでは2006年1月916日に再放送)。
  • 1992年8月3日放送の第677回ではウルトラマンチーム仮面ライダーチームが対決(TBSチャンネルでは放送なし)。
なお小林はウルトラシリーズにも出演(ムラマツ隊長……ウルトラマンに登場)しているため、ウルトラチームから「裏切り者!」と呼ばれ、場内の笑いを誘った。
  • レギュラー放送での番組対抗戦は、既に『家族対抗クイズ合戦』1978年8月27日放送分[7] に1回だけ行われていた。出場番組は、『スポーツケンちゃん』と『コメットさん(新)』だった。どちらも国際放映の作品であり、さらに家族がテーマの番組だった。
  • 1992年9月28日の最終回(第684回)では1時間の生放送スペシャルで、ハワイ旅行大放出の回であった。人気番組出演者、タレント、TBSアナウンサー、一般家族の計10チームが出場。対戦相手はくじ引きで決定、1問だけの勝負で、勝ったチームがその場でトラベルチャンスに挑戦。そのため両チームのテーブルには予め帽子と「見送り」旗が置いてあった。全チーム対戦後、残り時間があれば1度勝負に敗れたチーム同士での敗者復活もあり、1回だけ行われた。最後は出演者全員、ナレーターの橋本、番組スタッフが集まってエンディングとなり、9分割スクリーンには「14」「年」「間」「あ」「り」「が」「と」「う」「百太郎マーク」と出された。また生放送で時間がなかったため、巻きで進行する忙しさのあまり関口が3問お手つきで3つ目の「×」のプラカードを渡すつもりが「見送り」の旗を渡す、トラベルチャンスではフラップ板ではなく9分割スクリーンを使う為、解答者が答えたランキングが常時表示されず、ハワイ行き確定の帽子を被せる際に誰が1位か分からずに(1位を答えた解答者を優先させるため)解答者の自己申告や女性優先で帽子を被せる、「見送り」旗ではなく「×」のプラカードを持たせる場面も見られた。また、合計得点は勝利チームのスコアボード、獲得人数はスクリーン上部の白いスコアボードに表示された(TBSチャンネルでは放送なし)。
  • 1988年3月29日放送の『クイズまるごと大集合1988年』で『100人に聞きました』の問題の中に南極越冬隊員37人に聞いた問題も出題された(質問は「仕事がない時は何をして過ごす?」だった。出場チームの解答者の中には「人形と遊ぶ」という珍解答もあった)。この時の『クイズまるごと大集合』の第1次予選の『100人に聞きました』では1問勝負で勝ったチームには無条件で100点(回によっては1000点、1500点)が加算される設定となっていた。また別の回では、プロゴルファー岡本綾子1人に聞き、回答に優先順位を付けた「ゴルフをする時、これが無いと困る物」という問題が出題、勝者チームに500点加算されるルールであった為、本放送にはまったくない100人に満たない人数で聞いた問題も存在していた。
  • また、1991年春の『クイズまるごと大集合』では競馬にまつわる問題で別の回答から「調教師」が開いてしまい、スタジオで控えていた大橋巨泉からクレームがあった。そのため得点こそ認めるが不正解扱いで解答権は失うと言う異例の措置が取られた。
  • 解答後はカメラがパネルに向かってズームするが、最後の1枚の際はそのパネルに向かってズームする。
  • 解答者が答えた回答が正解の回答と微妙な場合、スタッフが判定する為、アタック音の後に数秒の間が空く事がある。それで不正解の場合は大きなヒントとなる。
  • 解答者が上手く説明出来ず、まとめられない解答があると、関口は少しの間の後「それ!」と言って判定を委ねる事があった。大抵は不正解の場合が多い。
  • 曖昧な答の言い直しを促すチャイム音を、司会の関口は「チンポン」と表現していた。視聴者から言葉の響きに「違和感」がある等の投書が寄せられたりしたものの、関口は「別におかしくないと思いますが」として、言い替えることは無かった
  • 1990年頃、出身大学対抗の芸能人大会があり、日本大学をはじめ、同窓生同士の男女混成の5人衆がクイズに挑んでいた。また同時期の正月特番で芸能人の出身県別対抗大会があった。男女3人組で1問先取勝ち抜きトーナメント方式だった。山梨県代表ではプロレスラージャンボ鶴田も出演していた。
  • 番組終了から3カ月後の1993年1月、正月特番で再登場した(チームは大学生チーム、解答者はみのもんた渡辺正行)。
  • 得点表示は一般的なデジタル数字7セグメントディスプレイ)表示であるが、唯一「4」だけ通常のデジタル表示で使われるデザインではなく、横棒の右側部分が突き抜けていた。
  • 1990年1月8日の放送(第549回)で、使用されている音楽(テーマソングや、あるあるあるーの時や、3人×の音楽)がリニューアルされた。その後今回のリニューアルが良かったか良くなかったか葉書によるアンケートが行われた。良かったと書いた人には抽選で賞品(リニューアルした音楽を収録したカセットテープ)が当たるというアンケートだったにもかかわらず、良くなかったという葉書が届いていた(番組内では「大失敗」と書かれた葉書を紹介していた)。やはり違和感があったためか1991年4月にあるあるあるーのBGMは元の曲をアレンジしたものに変えられた(テーマソングはアレンジされ、3人×の音楽はそのまま使われた)。
  • 番組後期辺りから、スタッフクレジットに感謝の意味をこめてアンケートに答えてくれた100人も(「○○(サラリーマン、高校生など)100人のみなさん」の後に「ありがとうございました」と)クレジットされた。さらに、1991年10月にTBSのロゴが「ミクロコスモスTBS」に変わると制作著作のクレジットがCGアニメーションへと変更された(アニメーションは当時の局名告知と同じ、現在制作著作クレジットをCGアニメにする演出はテレビ朝日が生番組で取り入れている)。
  • 1980年から1984年までTBS系列で放送された正月特番『超豪華!番組対抗かくし芸』では、1980から1982年まで隠し芸と隠し芸の合間のワンコーナーとして、隠し芸参加番組出演者がクイズを行っており、関口と橋本もコーナー担当として参加していた。その後1983年には『クイズ天国と地獄』、1984年には『ザ・チャンス!』にコーナーを変更したが、関口は1984年に、それまで愛川欽也が担当した総合司会を務めた。

注釈

  1. ^ 1984年10月から1987年9月までは、19:20 - 20:00
  2. ^ 後番組『関口宏の東京フレンドパーク』も続投。
  3. ^ オープニングの提供クレジットはVTRに組まれた。また、エンディングの提供読みは当時のTBSのアナウンサーが担当(後述のYKKの単独提供時は藤田恒美だったが、その後林美雄宮内鎮雄など男性アナの担当に変更した)。クレジットはブルーバックになっていた。
  4. ^ CoCoは瀬能あづさ脱退後のため4人に減っており、乙女塾での同僚(所属事務所は別)だった中嶋と組んだ。
  5. ^ ウルトラマンVS仮面ライダーの回では、ウルトラマンと仮面ライダーのミニキャラクター
  6. ^ 4位以下ではチャイムの音は短く鳴る。
  7. ^ 最終問題では発表せず、最終問題でなくても1位を当てた場合はしない事もある。
  8. ^ 画面に何度も点滅する表示だった。
  9. ^ 文字が画面中央から拡大してきて、ファンファーレが終わると同時にそのまま前に行く表示だった。
  10. ^ 通常問題の3回お手つきのBGMと同じ。
  11. ^ 日本人に「外国人に食べさせたい日本料理は?」、外国人に「好きな日本料理は?」など。
  12. ^ 福島テレビは1983年4月にTBS系列・フジテレビ系列とのクロスネット局からフジテレビ系フルネット局にネットチェンジしたが、視聴者保護のために1983年4月~9月までは番販扱いで放送していた。未放送期間中は東京放送東北放送新潟放送で視聴可能だった。
  13. ^ 富山県に工場を持つスポンサーのYKKの意向により同時ネットを行っていたが、1984年秋に『JNNニュースコープ』の放送時間拡大に伴って、同年9月下旬でネットを取り止め、アニメ『キャッツ・アイ』(日本テレビ系列)に切り替えた。ただし、1984年10月1990年9月の間も、新潟放送または北陸放送、さらには現在の岐阜県飛騨市と隣り合う中部日本放送の受信が可能な地域では視聴可能であった。
  14. ^ 厳密にはサービス放送初日の同年9月24日から開始している[6]
  15. ^ 北陸放送や中部日本放送、毎日放送でも直接受信(一部地域のみ)か1989年以降順次開局したCATV局での経由で視聴可能であった。
  16. ^ ただし、香川県では相互乗り入れ以前から山陽放送や毎日放送を通じて視聴可能であった。
  17. ^ 愛媛県のTBS系列新局であるあいテレビ1992年9月21日付で開局前サービス放送を開始しているが、開始当日は『わいわいスポーツ塾』最終回スペシャルの放送日に当たっており、当番組は同年9月28日の最終回スペシャルだけが放送された。
  18. ^ YKKアワー キックボクシング中継』からの続投
  19. ^ 企業と広告より
  20. ^ 島田がパーソナリティを務めていたラジオ番組『RADIO-izm』(FM-FUJI)でも話したことがある他、『ザ・ベストテン』でもVTRが放送された。1989年5月1日放送の「10周年記念チャンピオン大会」(第515回)でも紹介があった。

出典

  1. ^ 「〈折り込み〉週間番組表と番組ガイド」『財界ふくしま』第12巻第11号、行政問題研究所、1983年11月10日、89頁、NDLJP:2832618/47 
  2. ^ 「テレ・ばらえてい」『婦人生活』第39巻第4号、婦人生活社、1985年4月1日、72 - 73頁、NDLJP:2324848/72 
  3. ^ 福島民報』1983年9月26日付朝刊テレビ欄。
  4. ^ 『福島民報』1983年11月28日付朝刊テレビ欄。
  5. ^ 北國新聞』1984年9月24日付朝刊、テレビ欄。
  6. ^ 『北日本新聞』1990年9月24日付朝刊12面テレビ欄。
  7. ^ 朝日新聞 縮刷版』朝日新聞社、1978年8月27日テレビ欄。 
  8. ^ テレビ東京・BSテレ東『日向坂で会いましょう【クイズ!おひさま100人ぐらいに聞きました】(テレビ東京、2022/10/16 25:35 OA)の番組情報ページ | テレビ東京・BSテレ東 7ch(公式)https://www.tv-tokyo.co.jp/broad_tvtokyo/program/detail/202210/24925_202210162535.html2022年10月17日閲覧 






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