かんな‐がわ〔‐がは〕【神流川】
神流川
美しき景観に、伝統を受け継ぐ優雅な川
(注:この情報は2008年2月現在のものです)
神流川は、三国山の西側より多野山地へ曲がりくねりながら流れ、下久保ダムを通り、群馬県と埼玉県の県境を流れ、新町地先で烏川に注いでいます。流域面積は407km2、流路延長は87.4kmです。 |
群馬・埼玉県境を流れる神流川 |
河川概要 |
| ○拡大図 |
1.神流川の歴史 |
"神流川は、三国山にその水源を発しています。かつてこの地域では、木材の供給が盛んであり、戦前から戦後にかけて多量の木材を都市圏に供給していました。また、烏川と神流川の合流点は、滝川軍と北条軍の戦い「神流川合戦」が行われたり、「神流川の渡し場」が開設される等、歴史上重要な地点となっています。" |
神流川の源は、群馬、埼玉、長野の県境が接する三国山にその水源を発しています。 かつてこの地域では、木材の供給が盛んで、神流川本谷と呼ばれる流域にまで、森林軌道が敷かれ、戦前から戦後にかけて多量の木材を都市圏に供給していました。その当時は、本谷の最奥の地に上野村分校が開かれ、現地で集材に関する人々や児童でにぎわったこともありました。
戦国の時代、この地は、織田信長の家臣であった滝川一益と小田原北条氏との総勢7万の大軍による壮絶な戦い「神流川合戦」の戦場となりました。 天正10年(1582)、織田信長が本能寺の変にたおれた直後、関東管領として北関東を制圧していた廐橋城(いまの前橋)城主滝川一益は、上州軍を率いて京都に上ろうとしました。これに対して小田原の北条氏直、武州鉢形城主北条氏邦の連合軍が阻止しようとし、滝川軍16,000と北条軍50,000が激突しました。戦場は現在の神流川付近が中心となったので、この戦いを「神流川合戦」と呼んでいます。 戦争は北条方の勝利におわり、滝川軍は斬首約3,760余級(豆相記)と伝えられています。「氏直、検視し此の地に埋蔵す、よって首塚の名あり(口碑)」岡之郷にはその胴塚があり、首実見したこの地を実見塚(字名)といいます。 現在でも、新町ふるさと祭りにおいて、この勇壮な歴史絵巻が再現されています。 江戸の当時、上里町には上州と武蔵の国を分ける、神流川の渡し場が開設されていました。川には橋を架けない政策があったため、川の向こう岸に行くことは困難でありました。英泉の浮世絵からも、半分橋が架かっていて、残りの半分を渡し船で渡っていた様子がうかがえます。 |
2.地域の中の神流川 |
"神流川流域では、川に根ざした伝統的な祭りが受け継がれています。 「お雛がゆ」は、子どもたちが参加する三月節句の行事です。シロと呼ばれる囲いの中で、食事をし楽しく過ごします。 「お川下げ」は、川の恵みに対する感謝の祭りです。岡の上から水辺に神輿が渡御し、五穀豊穣を祈願します。" |
神流川の名前は、神(カム)の川が神名に転じたことに由来しています。感納川、甘奈とも綴られ、古くはカミノ川といわれたというのは、武蔵20余群の北の果て、「上」の国から流れる川の意と言われています。 神流川流域では、神流川と日常生活との関わりが深い為、川に根ざした伝統的な祭りが、受け継がれています。
行事の準備として、川原にシロ(城)をつくります。シロとは、10名前後が入れる直径数メートルの円形状に、石を高さ50~60cmに積み上げてつくる囲いを言います。囲いの上に壇をつくり、そこに古いおひな様、天神様などを置きます。 「お雛がゆ」の当日、子供たちは早朝から集まります。以前は行事名通りおかゆでしたが、近年は子供たちの嗜好にあったカレーライスや、即席ラーメンなどになっています。それらをおひな様に供え、自分たちも食べ、あとは一日、このシロを中心とした川原で遊びます。
お川下げの行列は、神楽の猿田彦命が先導し、道彦、神主、神饌者、神輿、囃子、氏子とつづきます。神輿は神社を出て、川瀬に至ります。その瀬の中に据え置かれて神官の祝詞が奉上され、神饌の小麦餅がつぎつぎに瀬の中に投入され、川下にいる子神たちに与えられます。その餅を拾って食べると、息災になるといわれています。 |
3.神流川の自然環境 |
"神流川は、三国山の西側より多野山へ曲がりくねりながら流れています。V字型の谷は急斜面を形成し、そのため石垣で築かれた段々畑は美しく、コンニャク等の栽培が行われています。また、全国に銘石として知られる三波石のふるさと三波石峡は、国の名勝及び天然記念物に指定されています。" |
神流川の上流部では、「シオジ」の原生林が目立ちます。この源流部一帯は学術参考保護林、国の天然記念物、県自然環境保全地域に指定されています。 三波石のふるさと三波石峡は、神流湖のすぐ下流にあり、国の名勝及び天然記念物に指定されています。神流川のゆるやかな流れに沿って登仙橋間での1.2kmの峡谷に、巨岩・奇石が林立しています。その様は太古からの歴史をも彷彿とさせ、神秘の峡谷の名にふさわしい景観です。
三波石の学名は「三波川変成岩」と言い、鉱物が地下深くで高い圧力や熱のはたらきによって再結晶し、一定方向に配列しているため「三波川結晶片岩」とも呼ばれています。この変成岩は日本の国土を縦断する中央構造線に沿ってその南側に細長く分布しています。色や含まれる鉱物組織などから緑色片岩・黒色片岩と呼ばています。 |
4.烏・神流川の主な災害 |
"烏・神流川における主な災害として、明治43年8月の台風10号、昭和10年9月の台風10号、昭和22年のカスリン台風による被害があげられます。" |
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(注:この情報は2008年2月現在のものです)
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