渓斎英泉
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渓斎 英泉(けいさい えいせん、寛政3年(1791年)- 嘉永元年7月22日(1848年8月20日))とは、江戸時代後期に活躍した日本の浮世絵師。
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 83頁。
- ^ 英山の父は狩野派に学んだ絵師の菊川英二であり、英泉の実際の師匠を歳の近い英山ではなく英二とする説もある。
- ^ ししゅく。直接に教えを受けることなく、師と仰ぐ人を定めて模範とし、学ぶこと。
- ^ べろ-あい。紺青。プルシアン・ブルー。1704年(元禄17年、宝永元年)、ドイツの首都ベルリンにてハインリッヒ・ディースバッハが偶然発見した、安価な青の顔料。それまでは高価な宝石を粉末化する以外に得ることの叶わなかった濃厚な青色は、この発見によって庶民のものとなった。江戸期の日本ではドイツの首都名「ベロリン(ベルリン)」に因み、「ベロ藍」と呼ばれた。俗説では、1831年(文政13年)、北斎が発表した『冨嶽三十六景』でこの色が効果的に使われたことから広く知られるようになったとされている。
- ^ 松田(2014)pp.30-31。
- ^ 松田(2014)pp.28-29。
- ^ 1940年(昭和15年)2月指定。
- ^ 松田(2014)p.19。なお1734枚の内訳は、美人画1265枚、風景画123点、花鳥画・子供絵各56枚、武者絵45枚、張交絵16枚、役者絵15枚、玩具絵12枚、団扇絵11枚、相撲絵8枚、その他114枚と円グラフで記されているが、全て足しても1721枚にしかならない。
- ^ 長田幸徳 『国貞作品目録 錦絵編』(私家版、1999年12月)に、松田が調べて追加した約300枚を合わせた数字(松田(2014)p.32)。
英泉(えいせん)
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長英の弟子で、長英にかわって麻呂尾寺のことを取り仕切っている。50代くらい。度の強い眼鏡をかけている、白髪交じりの厳しい顔の男。戦争中は満州の寺で苦行僧となっていたが、終戦後に引き揚げて麻呂尾寺に入った。
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