新たな要求
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これに応じて1936年5月に兵器諮問委員会(Conseil Consultatif de l'Armement)は敵の戦車との戦闘に十分な火力と装甲を備え、かつ低コストと高機動力のため20トン以下の軽量な戦車の開発が必要であるとフランスの軍需産業にむけて要望した。この時期にはルノーB1の問題点として鋳造や溶接ではなくリベット止め車体だったために想定より2トン重量が超過したことや複雑で大型ゆえに高コストであるという点が強く認識されるようになっていた。20トン戦車はB1より軽く高速でコストも低く容易に生産可能で乗員の訓練も容易となると考えられた故に、新型20トン戦車は重戦車も代替する次世代の戦車となりうる性能であるべきと決定された。 10月に特別委員会は「20トン戦車」の仕様変更を表明した。最高速度は少なくとも40 km/h 、航続距離 200 km 、ルノーB1bisと同等の防御力(全周で60 mm の装甲)、 250 cm の塹壕超越能力、化学兵器に対する完全な防御、鉄道輸送に支障をきたさない寸法、機関銃2丁および想定しうるあらゆる敵中戦車を撃破可能な高初速砲の装備というものである。 その仕様はこの戦車が従来のフランス戦車を超える強力で先進的なものになることを意味していると同時に、あまりにも意欲的な要求ゆえにすぐには完成しないだろうということもはっきりしていた。そのため当時フランスで行われていた歩兵科の戦車部隊の将来像に関する議論の決着が付くまで開発を待つということは避けられた。シャルル・ド・ゴールのような将校たちは歩兵科も騎兵科の軽機械化師団(Divisions Légères Mécaniques)やドイツ軍の装甲師団(Panzerdivision)のように師団自身の機械化歩兵や自動車化砲兵を持ち単独であらゆる任務に柔軟に対応できる戦車師団を創設すべきであると主張していた。しかしそうでない他の将校たちは騎兵の模倣をすることは無駄であり、歩兵は突破という自らの任務に専念するべきであると主張していた。限られた予算で戦車師団を創設するよりも、十分な数の歩兵支援軽戦車を歩兵師団内部の独立戦車大隊へ配備したほうが効果的な諸兵科連合が実現できると考えていたのである。なかには重戦車のみを生産したいと考えている将校もいた。この新型戦車は高い機動力と突破に十分な重装甲を両立することが要求されていたが、この特性はドイツ式の戦車師団を創設するときにこそ必要とされるものであり、完成したとしても大規模な量産にはこの議論の決着が必要だったのである。 このように実際に採用されるかの不確実性はあったとしても、フランス軍の将来の主力になりうる戦車の開発計画であったため大規模な受注による利益を期待して世界恐慌下で苦しんでいた企業がこぞって参加した。1936年の終わりから1937年初頭までに、Baudet-Donon-Roussel (BDR) 、FCM、フーガ、ロレーヌ・ディートリッヒ 、ルノー 、Sociétéd'Etudes et d'ApplicationsMécaniques(SEAM)、ソミュアの7社が設計案を提出した。 バティニョールも設計案を発表したが、実際には提出しなかった。 委員会は1937年2月20日に各社の提案に対して報告書を発行した。設計案のうち2つについては参加企業が1年以内に排除されてしまったため、この報告書が主要な情報源となっている。ソミュア案はソミュア S40とSau 40自走砲の中間のようなもので、基本的にはS35の登坂力を強化したものだった。FCM案について詳細はわかっていないが、おおむね20%大型化したFCM 36で重防御のFCM F4砲塔を搭載していた。 BDR案、 フーガ案およびロレーヌ案はその実現可能性についてさらに情報が提供されるまでは検討段階にとどめ置かれた。SEAMとルノーの設計案はその試作車両の製造許可が下りるまでに進行しており、また軍とも密接に情報交換をしたため正式に仕様が公開される前であっても設計に取り組むことができていた。11月に委員会がSEAMと契約する設計所の所長であるPrince André Poniatowskiに影響されて車体搭載の75 mm砲を主武装とすることを決定したことはルノーにとっては不利であった。SEAMの試作車両は1937年10月31日までに120万フランスフランの単価で納入され、うち20パーセントが国によってすすめられた。 この車体装備の75m砲という新たな要求は当初この2トンもの重量増加につながる大型の火砲を設置する容積を考慮せず車体を設計していた設計者たちにとって大きな問題となった。さらに装甲への要求が50%上方修正されたために更に2トンの重量増加が予想された。1937年2月20日の時点での設計案はすべて20トンの重量制限を満たすことができず、23〜25トンの案になっていた。 ルノー案は75mm砲の搭載を車体ではなく砲塔とすることで対応した。1936年にルノーはこれを代替案として提案し、評価も高かった。これに励まされてルノーは1937年に仲介人を通して歩兵科の高官を買収し、委員会に設計方針の転換を働きかけさせPoniatowskiから主導権を取り戻した。 彼は委員会に砲塔への75mm砲の搭載を単なる選択肢の一つではなく必要不可欠だと納得させたのである。これによりルノーは完全な新規設計を強いられて大幅な遅延を生じさせられていた他のライバルに対する圧倒的な優位を得ることができた。 1937年後半にこの計画は、Char G1と改名され、設計案についてもロレーヌ案はG1L、ルノー 案がG1R、BDR案はG1B、フーガ案がG1F、SEAM案がG1Pと公式に命名された。ソミュアとFCMの設計案は曖昧過ぎるか新規性に欠けたため拒絶され、この2社の生産能力は既存の戦車の生産のために集中された。 1938年2月1日に歩兵科は三度目の大規模な仕様変更として最大重量を35トン、砲塔に32口径75mm砲を搭載との新たな仕様を発表した。 これらの新たな要望は参加企業に設計の遅延を引き起こした。見通し不透明な中でこれ以上このような複雑なシステムへの投資を続けることを避けはじめたのである。そのため、1938年6月8日にフランス政府は進捗を加速させるためリュエイユ工廠(ARL,Atelier de Rueil)の軍事技術者Maurice Lavirotteを派遣し参加企業を支援させた。参加企業が装甲版を入手できなければ試作車両の段階では単なる鋼板でも許可した。 この時点ではルノーは製造可能となる日程について一切示すことができず、フーガとBDRの設計案はかなり重量が増加しており、 SEAMは1940年中頃、ロレーヌは1941年内には製造が開始できるようになると考えていた。 1938年7月12日には仕様に関するはるかに詳細なリストが提供された。概して強力な武装と対戦車砲に耐える防御力、そして優秀な戦略・戦術機動力を持つことを要求している。詳細には砲塔に長砲身の半自動式75mm戦車砲および対空火器としても運用可能な7.5mm機関銃を装備、それとは別の機関銃を車体正面もしくは砲塔に搭載。主砲の弾薬数は100発、機関銃のマガジン30個を搭載。空虚重量で30トン、戦闘時の重量が32トン。エンジンは電気的にも手動でも始動することができなければならず、履帯は完全に接触可能。整地速度で40 km/h、長距離の移動でも平均速度で30 km/h、不整地でも20 km/hで走行可能。200kmないし不整地を8時間走行可能とする2つの燃料タンク。乾燥地で高さ90 cmかつ勾配85%まで、濡れた坂道でも勾配65%までの登坂力。250 cmの塹壕超越能力と深さ120 cmまでの渡河能力。寸法制限も初めて明確な数値として示され、鉄道輸送の都合から戦闘室の高さは120cm未満、横幅は294 cmを超えてはならず、同時に側面ドアも十分に開くことが可能なことと設定された。 化学兵器防御および装甲厚の仕様は60mmのまま維持されたが追加要求として、アップリケ装甲としないこと、および鋳造ないし電気溶接とすることが求められた。自動消火装置の搭載も要求された。 乗員には先進的な視界装置および射撃管制装置が必要とされた。副武装として7.5mm機関銃が搭載されたキューポラは大型のエピスコープを装備し、必要なら車長が砲手を兼任できるようにするため砲塔と連動して75mm砲を敵に指向させることを可能とする。キューポラには光学測距装置も搭載される。主砲は32口径の75mm砲で後に搭乗する他国の中戦車と比べて砲身は短めだが,エドガー・ウィリアム・ブラントが開発した口径より細いタングステンの弾芯を用いた徹甲弾(APCR)を使用することで高い砲口初速を実現していた。 1938年夏にはどの設計案も大規模な再設計なしにこれらを満たすことはできなかった。
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