Wヤング Wヤングの概要

Wヤング

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/14 17:19 UTC 版)

Wヤング
メンバー 平川幸男
佐藤武志
元メンバー
中田治雄
別名 ダブヤン
結成年 1964年
解散年 2019年
事務所 吉本興業
現在の活動状況 解散(死別)
受賞歴
上方演芸の殿堂入り(2020年)
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メンバー

なんばグランド花月など定期公演でWヤングとして登場する時は「現役最高齢の吉本芸人」を自称していた。
戦前に吉本の端席に出ていた万才の唄の家なり駒を叔父に持つ。
第2次時代からはボケ(一部場面ではツッコミ)担当だが、第1次時代はボケ・ツッコミ両方を担当していた。兵庫県神戸市出身。
元々歌手志望であり、西川ヒノデに弟子入り前は3年間、鈴河政雄の元で歌手修業をしていた。1973年には念願の歌手デビューも果たす。また、耐久カラオケのギネス記録を持つ(現在も保持している)。
第1次Wヤングでは「平川 幸雄」の芸名で活動していた。読みは現在の芸名と同じ。
本名が、ボヤキ漫才の「人生幸朗・生恵幸子」の人生幸朗と同じ名前だが、偶然の一致である(「人生幸朗」を名乗りだしたのは、1955年)。
演歌歌手の秋岡秀治(本名:平川幸仁)は長男[1]。妻は有馬温泉芸子で、2010年に亡くなっている[1]
2019年11月上旬[2]大阪府内の病院に入院し療養生活を送っていたが、11月11日夜に容体が急変し死去[1][2]。78歳没。
  • 佐藤武志(さとう たけし、1954年10月5日 - ) 本名:佐藤 武司(読み同じ)。
ツッコミ(一部場面ではボケ)担当、兵庫県尼崎市出身。立ち位置は左。
県立尼崎高校卒業後、森永乳業に半年勤務、1973年10月に吉本新喜劇入団。
愛称は、新喜劇入団当初は風貌容姿から「まる坊」、現在は「まる兄さん」「まる兄」。
新喜劇では、何かのきっかけで突然理不尽に暴れ出すギャグを得意としていた。1984年に漫才業に専念するため新喜劇から離れていたが、平川死去後の2019年12月より35年ぶりに新喜劇の座員として復帰した[3]
妻は吉本新喜劇の女優浅香あき恵

元メンバー

愛称は「軍ちゃん」。ボケ・ツッコミ両方を担当していた。奈良県大和高田市出身。奈良県立高田高等学校卒業。

高校卒業後住友銀行に就職するが、東映ニューフェイス第6期に合格して俳優デビュー。

その後、西川ヒノデショーのバンドメンバーとして活動する中、同メンバーの平川と出会う。

声質が上岡龍太郎笑福亭仁鶴に似ていた。

楽屋でやっていた野球賭博に手を出した事と事業の失敗で多額の借金を抱え、1979年10月25日熱海の海岸で飛び降り自殺した[4][5]。41歳没。
人気絶頂の最中での突然の死は多くの芸人に衝撃を与えた。発見現場近くの展望台には漫才の台本などが入ったカバンが残されており、便箋5枚に渡る「死出の旅」という遺書には「人はいさ心も知らぬ故里に死ぞ昔の香に匂ひけり」と辞世の歌が書かれていた。告別式の時には、平川は棺の前で「なんで死んだんや!」と号泣した。博打と事業で儲けようとしていたようだが結局は自分の意志が弱く、借金で追い詰められ最後は自決という形での最期を選んだのであった。事件の前には中田本人から借金の事を聞いた平川の主導で吉本興業に借金の肩代わりを頼んだりもしたが、その際中田は借金の正確な額をどうしても言い出せず、肩代わりしてもらった残りの分を返済するべく再度博打に手を出し、これが悲劇につながった。この事は現在でも賛否両論の声があり、また平川は「その時に借金全額を口に出せる勇気があったならこんな事にはならなかったのに」と語っている。
また事件の後の11月1日には、母親の和嘉も国鉄巻向駅構内で線路を横断中に急行列車に撥ねられ亡くなっている(69歳没)。和嘉はワイドショー「独占!Wヤング自殺、涙の遺書初公開」を視た後に駅へ向かう途中だったという。
なお、同じ中田姓の中田ダイマル・ラケット(本名・芸名共に中田姓)と師弟関係及び兄弟親子関係と思われる事も有った様だが、実際は師弟関係及び直接のつながりはない。
天国のスタア2006」や「なつかしの昭和爆笑漫才~天国の笑星~」では本名でテロップが出されていた。

来歴

中田は住友銀行に勤務。1956年に何気なく受けた東映ニューフェイスのオーディションに合格し役者を目指すもいい役どころに恵まれず断念(同期には里見浩太朗がいた)。1961年に映画の仕事で知り合った西川ヒノデ(「西川ヒノデショウ」という4人組のコミックショウのリーダー。メンバーの中に二代目西川サクラ=後のフラワーショウの華ぼたんがいた。後の「西川ヒノデ・サクラ」。ちなみに西川きよしとは直接の関係はない)の弟子で[4]「西川ヒノデ・サクラ」の伴奏要員で初舞台。一方の平川は地元の中学卒業後、1958年より歌手志望で3年間修行したが芽が出ず、1961年に叔父の唄の家なり駒の紹介で西川ヒノデの弟子になり中田同様に「西川ヒノデ・サクラ」の伴奏要員で初舞台。程なくして同門の3人で漫才トリオ「リズムデッサン」を結成(当初は本名で出ていた)。千日劇場や松竹の道頓堀角座などで前座修行を積む。1964年にトリオは解散し独立、メンバーのうち、西川ヒデ若平川幸雄西川ヒデオ中田治雄にそれぞれ芸名を改め、「初代Wヤング」(当初はコンビ名を西川ヒデオ・ヒデ若)を結成。しばらくして千土地興行から1966年に娯楽観光を経て吉本興業に移籍。

当初はリズムデッサンと同様の音曲漫才(音楽コントと表記されていた)だったが、後にしゃべくり漫才に転向。当初は平川の女キャラで売り出す。後に県名や動物、酒やタバコの銘柄などを折り込んだ洒落をふんだんに使った漫才で、1960年代の演芸ブームの波に乗り人気を得る。「やすしきよしが最も恐れた漫才師」と言われ、またビートたけしが著書で「ツービートが何年やっても追い抜くどころか追いつく事さえできない」とその実力を認めるなど、後の漫才ブームの中心となった漫才師達の多くも彼らを目標としていた[4][6]

人気絶頂の最中、1979年10月に中田が突如なんば花月の舞台を前に失踪し、相方のいない平川はその日の舞台を池乃めだかと組んだ。その後胆石で平川は入院、10月25日になって中田が飛び降り自殺しているのが発見される。漫才ブームが到来する僅か3ヶ月前のことであった。平川は入院中に隣の隣のベッドにいた男性(後にその男性がハイヒールリンゴの父親だったと知る)に悲報を聞く。発作的に後を追おうとするなど一時期重度の情緒不安状態に陥るほどのショックを受け、退院までは常に付き添いの者が病室の窓に張りついて監視していたという。「花王名人劇場」のプロデューサーを当時務めていた澤田隆治は、(「花王名人劇場」に)最初に呼ぶ漫才はWヤングを予定していたが、中田が自殺したためやすしきよしに変更したと講演で語っている[5]。そのやすしきよしは同番組をきっかけにポストWヤングの座を射止め、漫才ブームを牽引することになった。中田が生きていたら、「モミジまんじゅうー!」「コマネチ!」「おさむちゃんで〜す」に交じって「ちょっと聞いたあ?」や「えらいすいません」が飛び交う"未来"があったかも知れない[5]

その後、平川はピン芸人として「ポケットミュージカルス」の歌手や吉本新喜劇、営業での司会業などに活動の場を移すが、劇中で佐藤武志と漫才コンビ役をしていたことを機に、1984年4月、佐藤を誘って第2次Wヤングを結成した[4]。このとき平川は芸名を「幸雄」から「幸男」に改名。第2次では舞台上を走り回ったり、どついたり、キスしたり、といった体当たりの漫才を披露。新コンビ結成当初は前座扱いされる屈辱も味わったが、結成20年を越えたなんばグランド花月や寄席を中心に中堅~重鎮格のコンビとして活動した。テレビ、ラジオへも関西ローカル中心にコンスタントに出演しており、「笑点」「演芸図鑑」「上方演芸会」など全国ネット番組にもしばしば登場、動きの激しい漫才を披露していた。

2007年に吉本興業の分社化に伴い、子会社よしもとクリエイティブエージェンシーに移籍[7]

2009年には平川の芸能生活50周年、コンビ結成(佐藤との)25周年イベント「Wヤングの激動漫才! 平川幸男50周年だよ 佐藤武志と組んで25周年だって、へんなの!」を10月4日にNGKで開催した。

2018年末から2019年に入ると、平川が体調を崩し休養と復帰を繰り返したことから、佐藤は古巣である吉本新喜劇への復帰を考えるようになり、同年11月にコンビの解散を発表する段取りとなっていたが、発表前日に平川が死去。これにより事実上の解散状態となり、第1次時代を含めた足掛け55年のコンビ活動に幕を降ろし、同年12月から佐藤は吉本新喜劇の座員として35年ぶりに復帰した[3]


  1. ^ a b c d e “Wヤング平川幸男さん死去、前夜に急変 78歳”. nikkansports.com. 日刊スポーツ新聞社. (2019年11月12日). https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201911120000464.html 2019年11月12日閲覧。 
  2. ^ a b “Wヤング平川幸男さん死去 78歳 11月上旬に入院、昨夜容体が急変”. Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社. (2019年11月12日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/11/12/kiji/20191112s00041000208000c.html 2019年11月12日閲覧。 
  3. ^ a b Wヤング佐藤武志35年ぶり新喜劇復帰「暴れ倒す」 日刊スポーツ 2019年12月3日
  4. ^ a b c d 「ああWヤングよ永遠に…」、『笑芸人 VOL.1』所収、白夜書房、1999年、P73。
  5. ^ a b c d 安田謙一「西の国から吹くコラム Sangari★a vol.1『Wヤング』エグいほどのボケと、テンポのいい漫才。」『昭和40年男』2018年12月号、クレタパブリッシング、133頁。 
  6. ^ 木村政雄の私的ヒストリー|木村政雄の事務所
  7. ^ 2019年に吉本興業が吉本興業ホールディングスに社名を変更したことを機に、子会社が吉本興業に改称。
  8. ^ 一方で相方の佐藤はまるで歌唱力がなく(ほとんど棒読み同然)、そのギャップも笑いの種になっている。
  9. ^ 大阪府立上方演芸資料館 ワッハ上方. “第23回殿堂入り(令和元年度) Wヤング(ダブルヤング)漫才師”. 上方演芸の殿堂入り. 2022年9月13日閲覧。


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