司馬遼太郎 エピソード

司馬遼太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/07 03:42 UTC 版)

エピソード

人物

  • 速読家として知られ、ある友人と家で話していたとき、その友人がコーヒーを1杯飲み終わるうちに、会話しながらであるにもかかわらず、文庫本くらいの大きさの本1冊を読み終わっていたというエピソードがある。この時読んでいたのは小説の資料(当事者の日記など)である。
  • 資料集めへの執念はすさまじく、一度に何千万円単位という巨費を投じて買い集めた。司馬が資料を集め始めると、関連する古書が業界から払底したという逸話があった。当初は、軽トラックで乗り込み、古本屋に乗り込むや否や手当たり次第に乱読購入し、関係者らと荷台に乗せていったという。『坂の上の雲』執筆に際しては、神田神保町神田古書店街古書店主らに依頼し、「日露戦争」という記述のある本を片っ端から買い集め、当時同じ題材の戯曲を書いていた井上ひさしが古書店に行っても資料がなかったという逸話も残る。
  • 名字とその人の顔つきなどから、出身地や先祖を当てるという特技があり、たびたび周囲の人を驚かせた。
  • 私生活の面では中村玉緒のファンで、そのお辞儀の美しさに見とれたという。舞台『竜馬がゆく』で、萬屋錦之介と共演した。また錦之介は竜馬を生涯の持ち役とした。
  • 自身の作品の中で最も好きな作品はと聞かれた際「空海と燃えよ剣」と語っている。
  • 大阪市西長堀アパート[注釈 10]に住んでいたころ、同じフロアーに、昼過ぎに家を出て深夜に帰ってくる謎の大男がいた。肉体労働者のような体つきだが、それにしては身なりが良い。自宅に出入りする出版社の編集者に雑談として話したところ、興味から編集者がその謎の男の住む部屋の表札を確認したら、野村克也と書かれていたという。スポーツに関心がないあまり、野村を球史に残るスター選手と知らぬ司馬と、隣人を司馬と知りながら、シャイで話しかけられなかった野村は、結局親しくなることはなかった。
  • 執筆活動以外はごろ寝をしてテレビを見るくらいで、ゴルフやギャンブルといったようなものへの興味は生涯なく、バンダナ収集が唯一の趣味であった。外出の際は気に入ったバンダナを身につけていた。その多くは遺族が保存し、記念館で一部展示している。
  • 終生喫煙者で、タバコ銘柄はハイライト、喫煙する肖像写真が多く残っている[105][106]
  • 話し上手・聞き上手として有名で「座談の名手」と呼ばれ、対談集を数多く出版した。交友関係も広く、池波正太郎をはじめ、桑原武夫井上靖梅棹忠夫榊莫山上田正昭ドナルド・キーン萩原延壽山崎正和安野光雅貝塚茂樹湯川秀樹兄弟など多岐にわたった。池波は小説家として共に駆け出しのころの親友であり、お互いに忙しくなってからは次第に疎遠になったそうだが、司馬は池波の『鬼平犯科帳』など愛読していたという。また、小説家としての初期に励ましてくれたのは海音寺潮五郎で、海音寺の励ましがなければ小説家として立っていたかどうか疑わしいと司馬は回想している。晩年は宮城谷昌光を高く評価し、宮城谷から送られてくる作品を読んで手紙などで励ましつづけ、没する間際には宮城谷に「どうしても会っておきたい」と述べて会談を行っている。
  • アニメ監督の宮崎駿の作品、特に『ルパン三世 カリオストロの城』、『となりのトトロ』を高く評価し、宮崎と対談も行っている。その時に司馬が新聞記者時代、京都の岩屋不動志明院に宿泊した際、奇っ怪な体験をした話しをしていて『もののけ姫』の着想になったといわれている。
  • 1970年11月25日に起きた三島事件では毎日新聞に寄稿、作家・三島由紀夫の「薄よごれた模倣者」が出ることを危惧し、三島の死は文学論のカテゴリーに留めるべきものという主旨で、政治的な意味を持たせることに反対し、野次った自衛官たちの大衆感覚の方を正常で健康なものとした。だが四半世紀を経た晩年には、三島が予言したバブル期の日本人の拝金主義や倫理喪失を憂うようになった[107]
  • 田中卓志アンガールズ)の祖父は、司馬と戦地で同じ部隊だったことがテレビ番組で判明した[108]
  • 豚と薔薇で推理小説を書いたが、探偵小説に登場してくる探偵について「他人の秘事を、なぜあれほどの執拗さであばきたてねばならないのか、その情熱の根源がわからない」とあとがきに書いている。

その他

  • 直木賞選考委員だった時に、SF作家広瀬正の作品を何度も、候補になるたびに高く評価したが、他の選考委員の賛成を得られず、授賞に至らなかった。後に早世した広瀬の作品集がまとめられた際には、『広瀬正・小説全集2 ツィス』の解説を書いた。
    直木賞選後の司馬の評に、どれほど広瀬を評価し、同席した他の選考者があきれていたかが推察できる。当時の評から一部抜粋すると、「一読者として、一番面白かったのは、広瀬正氏の『マイナス・ゼロ』であった。SFには読み方が要る。頭から空想譚に騙まされる姿勢で読まねばならないが、それにしてもこの人の空想能力と空想構築の堅牢さにおどろいた」というものである。この一節は「マイナス・ゼロ」の帯広告にも用いられた。初期に伝奇小説を多く執筆している司馬にとって、こうしたSFへの好意はさほど意外なものではない。
  • 芸術家・岡本太郎が万博協会から大阪万博プロデューサーへの就任を打診された時、岡本は司馬に万博プロデューサーを引き受けるべきか相談。司馬は「ぜひやったほうがいい」と岡本を励ました[109]
  • 古巣の産経新聞社をはじめとするフジサンケイグループの鹿内家支配を「企業の私物化だ」と批判しており、羽佐間重彰(当時産経新聞社社長)・日枝久(当時フジテレビジョン社長、産経新聞社取締役)らによる鹿内宏明会長解任を喜び、羽佐間・日枝に色紙を贈ったという[110][注釈 11]
  • 元台湾総統の李登輝とは学徒出陣の同期であり、李が愛読者でもあったことから懇意となった。『台湾紀行』取材に際しては、総統時代の李と対談を行った。
  • 堤堯(『諸君!』、『文藝春秋』の元編集長)によれば、生前の司馬から、「日本には自民党共産党、この二つがあればエエ。現実政党と批判政党の二つや」という言葉を直接聞いたことがあるという。これは、堤が雑誌コラムなどでたびたび書いている話だが[112]、司馬自身は著作ではこのような趣旨の事は書いていない。
  • 祖父・福田惣八は兵庫県姫路市の浜寄りの郊外のという村の出身で、そこに江戸時代のあいだずっと百姓をしていた家系に生まれた[113]。戦国のころは播州三木城にその先祖が籠城したということであるが、身分はわからない[114]浄土真宗西本願寺の熱心な門徒で、三木城が落ちてから他の籠城兵ととも広村に落ち、そこで田地を耕した[114]。惣八の嫁(司馬の祖母)は、広に近い高浜の人で司馬の父親となる是定(しじょう)を産んでほどなく亡くなった[115]。惣八が明治維新をむかえたのは18か19の頃で、“百姓にも姓がつくそうな。”ということになり、当時村にいた惣八の一族たちは会合して申しあわせ、三木という姓にすることにしたが(先祖が三木籠城したということでそうなったという)、その頃惣八は親類中と喧嘩をしていて、親類の者から「おまえだけは別の姓にしろ」と言われた[116]。惣八は、無類の珠算好きで、ついには和算までやりだし、ソロバン開平開立を解いたりした[116]。その後、彼自身のわずかな財産からすれば大相場を張ったが、無一文になってしまい土地にいられなくなったため、夜逃げ同然で村を出、飾磨の湊から船に乗って大阪に行き、難波で屋を開業した[117]
  • 生涯大阪に居住し、生前最後の住居が大阪府東大阪市の司馬遼太郎記念館として(一部が)公開されている。

注釈

  1. ^ 生涯井伏作品を愛読している。『別冊アサヒグラフ 井伏鱒二の世界』(朝日新聞社、1992年)にも井伏論を寄せている。
  2. ^ 第二次世界大戦終戦時点での司馬の年齢は正確には22歳で、正確な年齢を記述している著作もある。
  3. ^ 青木は後に『中外日報』編集局長、西本願寺の雑誌『大乗』の編集長を歴任。『梟の城』は、青木の伝手で『中外日報』に連載されている。
  4. ^ 多くの選者が無視し、一人がもっともな理由で痛烈に否定し、一人がそれ以上の激しさで推賞した。それが海音寺であった[16]
  5. ^ プロポーズの場所は大阪市電の電停であった[17]
  6. ^ 李登輝は同世代の愛読者であった。この対談は内外の注目を起こした。なお1989年には韓国ソウルで、当時韓国大統領だった盧泰愚と対談した[19]
  7. ^ 日本軍の損失、戦死者7,696人、行方不明者(捕虜も含む)1,021人、負傷者8,647人、合計17,364人。ソ連軍とモンゴル軍の損失、戦死者9,983人、負傷者16,662人、合計26,645人。
  8. ^ 司馬はソ連情報公開直後に書かれた、アルヴィン・D. クックス『ノモンハン―草原の日ソ戦 1939』朝日新聞社〈上・下〉、1989年。を読み、来日したクックスとも対談「ノモンハン事件はいつも古くて新しいですね」「書くよりも読者の側に回ってよかったと思いました。いい本でした」と見解を述べている。のち『東と西 対談集』朝日新聞社に収録。
  9. ^ 司馬もエッセイ集『司馬遼太郎の考えたこと』『軍神・西住戦車長』ではマレー作戦シンガポールの戦いを日本の戦車が武名をあげた唯一の例として、戦車らしいものをもたなかったイギリス軍相手に無人の野をゆくように突進し、島田豊作少佐率いる1個中隊18輌の戦車がイギリス軍2個師団を壊滅させたと記述している。
  10. ^ いわゆる下駄履きアパートではなく、現在で言う最新の高層マンションのような高級物件である。
  11. ^ 司馬は鹿内に「ハイジャッカー」とのニックネームをつけて呼んでいた[111]

出典

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  14. ^ 司馬は自身が「老いらくの恋」という見出しを付け流行語になったとしているが、それが記憶違いであることは当時を知る報道関係者らに否定されている(『新聞記者・司馬遼太郎』文春文庫、2013、p104)。司馬は事件のあとに川田から「老いらくの恋」の語が入っている詩を見せてもらったと「自伝的断章集成」に書いているが、その詩は川田が家出前に懇意にしていた朝日新聞編集局長に送られており、「老いらくの恋」は同紙の第1報から見出しに使われている。
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  18. ^ この時期までは、産経新聞社『新聞記者司馬遼󠄁太郎』(文春文庫、2013年)、後輩の三浦浩『青春の司馬遼󠄁太郎』(朝日文庫、2000年)に詳しい。
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