千日デパート火災 プレイタウンについて

千日デパート火災

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 14:35 UTC 版)

プレイタウンについて

チャイナサロン「プレイタウン」は、1967年(昭和42年)5月16日に千日デパートビル7階で営業を始めたアルバイトサロンである[注釈 6]。同店は、1969年(昭和44年)5月15日に同年4月末で閉鎖になった6階・旧千日劇場の一部を利用して6階にも営業エリアを拡張した。火災発生のほぼ1か月前の1972年(昭和47年)4月17日に6階でボウリング場改装工事が開始されるのに合わせて、プレイタウンは6階での営業を廃止した。同月28日に6階旧営業エリアと7階プレイタウンのホールを繋いでいたスロープ状の通路部分をベニヤ板で仮閉鎖し、ボウリング場改装工事が始まった[8]

プレイタウンの管理権原者は、同店を経営する千土地観光の代表取締役業務部長である[156]。右同人は1964年(昭和39年)6月に日本ドリーム観光から同社に出向しており、1970年(昭和45年)5月から代表取締役業務部長になり、本件火災当日もその地位に就いていた[157]。また千土地観光の代表取締役にはもう1人、日本ドリーム観光の代表取締役社長である松尾國三も名を連ねており、松尾が同社の社長も兼任していた[1]。プレイタウンの防火管理者は、同店の支配人(店長)である[156]。右同人は1970年(昭和45年)9月1日から同店支配人に就任し、本件火災当日もその地位に就いていた[3]。プレイタウン支配人は、1971年(昭和46年)5月に2日間の防火管理者講習を受講し、同月29日に同店の防火管理者に選任された[3]。プレイタウンは消防法令が定める防火対象物の区分では「特定防火対象物・第2項(イ)」に分類されていた[158]

営業形態

営業時間は平日が17時から23時まで、土日・祝祭日が1時間前倒しの16時から23時までで、年中無休だった[89]。主婦などの素人の女性がホステスを務め、ワンセット200円の低料金で気軽に楽しめるとあって人気があり、大阪ミナミでは中クラスの大衆サロンだった[159]。当時のアルバイトサロンは、キャバレーのようにバンドマンの演奏や歌を聴きながら、またはショーを観ながら飲酒やホステスの接待を受ける形式が一般的だった。プレイタウンもその流れに乗り、毎夜ステージでバンドマンの演奏やダンサーのショーが演じられていた。生演奏に合わせて客とホステスがダンスを踊ることも行われていた[160]。プレイタウンはチャイナサロンと銘打っていたため[91]、ホステスはチャイナドレスを身に着けて接客していた人が多く、店内の装飾も中華風の灯籠やモール、つる草模様の衝立て、深紅の幕で飾られていた[161]。客の収容人数は150人で、ホステスは約100人が在籍し、支配人やボーイなどの従業員は約40人が勤務していた[89]。火災当日のプレイタウンの集客状況は、おおむね7割程度の客の入りであったが、7階プレイタウンへ火災による煙が大量に流入してきた22時40分から43分ごろに在店していたのは客57人、ホステス78人、従業員ら46人(バンドマン10人とダンサー1人の計11人を含む)の合計181人である[注釈 11][159][162]。火災発生当日は土曜日夜で、いわゆる半ドンであった。1970年代前半は、まだ週休二日制は一般的ではなかったために、日曜前日にあたったことから、営業時間全体を通して店内には客が多かった。プレイタウンのホステスは子持ちの母親が多く、奇しくも火災が発生したのは母の日の前日でもあった[163]

店内の構成

7階プレイタウン店内の構成は、中央ホールが東西32メートル、南北17メートルの広さがあり[164]、ホールの平面は台形のような形をしていた[165][166][167]。ホールにはテーブル117個、ボックスシート141個、衝立37枚が置かれていた[164]。ホール内の北側のF階段東隣には、扇形のバンド演奏用ステージが設置され、その前面と客席エリアの間がショースペースとなっていた。ステージ裏には、北東側の外窓に面したベニヤ板で間仕切りされた3室の小部屋(ボーイ控室、バンドマン控室、タレント控室)が設けられていた[168]。またステージ西隣にF階段出入口が2ヵ所あり、一つはステージ西隣のホールに面したF階段直結部分に「電動防火シャッター」が設置されていた。もう一つのF階段出入口は、調理場配膳室の東隣に直結した場所に、両開きの防火扉で構成された鉄扉が設置されていた。F階段出入口の電動防火シャッターは常時閉鎖され、F階段防火扉も常時施錠されていた[168]

アーチ状のホール出入口(エントランス)はホールの南側にあり、ホール出入口(ホール内側)の西側にレジとトイレが、またレジの北隣にベニヤ板で間仕切りされた物置があった。この場所は、プレイタウンが6階で営業していたときに使用していたスロープ状の旧連絡通路部分で、火災発生当時は建設資材置場として利用されていた[168]。ホール出入口正面(ホール外側)にクロークと電気室があり[168]、クロークの奥にはカーテンで覆い隠された附室を備えた特別避難階段・B階段の出入口(単一の片開き鉄扉計2枚)があった[169]。B階段を使用するためにクロークの中に入るには、クロークのカウンター西端の天板(高さ90センチに設置された幅50センチの板)を跳ね上げたあと、幅65センチの戸板を押し開く必要があった[170][171][172]。クロークの東隣にエレベーターホールがあり、エレベーターホール南側(クロークの東隣)には「A南エレベーター」が設置されていた。A南エレベーター斜向かいのエレベーターホール東側奥に「A1エレベーター」が設置されていた[168]。これら2基のエレベーターは、プレイタウン専用である[133]。客と従業員は通常、2基の専用エレベーターを使ってプレイタウンに出入りしていた。A南エレベーターの東隣に防火扉(片開き鉄扉)を備えたA階段出入口があった[168]

ホールの西方に調理場(F階段の西隣)、空調機械室、事務所、宿直室、衣装室、ホステス更衣室などがあり[168]、それらはいずれも北側の外窓に面しており[173]、幅1.23メートルから1.8メートルの狭く入り組んだクランク状の廊下で各部屋が結ばれ[174]、廊下の東端でホールに繋がっていた[168]。事務所前の廊下には、3階から7階の各階を垂直に竪穴で繋ぐ空調ダクト(リターンダクト)の吸入口があり[175]、ダクト内の3か所(4階の天井付近および6階と7階のスラブ付近)に防火ダンパーが備えつけられていた[176][177]。プレイタウンの最も西側に位置しているホステス更衣室は、北側に面した外窓2か所のうちの1か所がロッカーで完全に塞がれており、窓を開閉することができない状態となっていた[168]。プレイタウンのホールに面した各外窓は、酔客による転落防止や物品投下などを防止するため、安全上の観点から取っ手に針金を巻き付けたうえで内側に金網窓を填め込んで窓が開かないように二重の安全対策を施していた。それは救助袋が設置してある窓においても同様の状態となっていた。またホステス更衣室にはE階段に直結した出入口(両開き鉄扉)があった[168]

店内の避難設備と消防防災関係設備

プレイタウン店内の避難設備は、ホール北東角の窓下に救助袋(斜降式。内径は縦62センチメートル×横57センチメートル)が1つ備えられていた[168][169]。1958年(昭和33年)12月に千日デパートビルが新装開業した際、移動式救助袋が4階から屋上までの各階に設置されたが、プレイタウンの救助袋はそのうちの一つである[注釈 22][67]。1963年(昭和38年)8月17日、固定金具を取りつけるための改修が施され、救助袋は固定式となった[67][178]。救助袋の全長は30.21メートルで[注釈 22][178]、開口部は一辺が85センチメートルの支持棒に上下で取りつけられており(縦枠は78センチメートル)[179]、平時には倒して収納している上枠支持棒を180度上方へ引き上げることで袋の入口が完全に開く仕組みになっていた[179]

プレイタウン店内の防災関係設備は、消火器14、報知器3、屋内消火栓3、店内放送スピーカー15、誘導灯7、標識板2、防火隊専用栓2、防火区画1、懐中電灯10などが装備されていた[注釈 23][169]。プレイタウンの外窓開口部の大きさは、北側、北東側、東側の各窓共通の寸法で縦102センチメートル×横180センチメートルで、床から78センチメートルの位置に設置されていた。救助袋が設置してある北東角の窓に関しては「観音開き2枚」で構成されていた。そのほかの窓は「外突き出し1枚窓」で各窓共通である。厨房窓は例外的に特殊な構造をしており、横幅が少し狭く、換気扇が窓両脇に2つ填め込まれている関係で固定式だった。地上(GL)から7階プレイタウンの外窓下枠までの高さは、約25.5メートルである。

プレイタウンに通じていた階段は全部で4階段「A、B、E、F」があった。従業員専用エリアに面していない「階段A、F」の7階出入口は、店の営業中においても常時施錠されていた[3][169][180]。A階段の7階出入口は、普段から防火扉の前に看板を貼り付け、扉の全面を覆い隠した状態になっており、扉の存在が誰の目にも判らないようになっていた。だが扉の上には非常口を示す「誘導灯」が設置されていた[181]。F階段電動防火シャッターは、通常において電源は切られており、開閉できないようになっていた。シャッター部分の全面にベニヤ板を貼り付けたうえで、その部分を常にカーテンで覆い隠し、その前面にはテーブルとボックス席が置かれていた。また特別避難階段の7階B階段出入口は、プレイタウンの営業中は常時解錠されており、従業員は自由に出入りすることができた[174]。7階B階段出入口については、施錠ならびに解錠の両方をプレイタウンが管理していた。B階段は、普段からプレイタウン専用階段になっており[3]、おもにプレイタウン従業員(ホステス)の退勤時に利用されていた[3][89]。とりわけ23時過ぎの退勤時に専用エレベーターが混雑する理由から店側は客にエレベーターを優先して使ってもらうために、従業員に対してはB階段を使って帰宅するように推奨していた[3][89]。7階E階段出入口は、普段は基本的に施錠されていたが、ホステスたちは扉を任意に解錠してデパート内の売場に出入りしていた[180]。この7階E階段出入口の施錠については、プレイタウンの担当とされており、デパート管理部から管理を任されていた[182]

階段出入口の鍵の保管状況

7階プレイタウンに通じている各階段A、B、E、Fの7階出入口の鍵の保管状況は、いずれの出入口の鍵もプレイタウン事務所内に保管されていた。B階段出入口については、単一の片開き鉄扉計2枚(階段室および附室)で構成されているため、それぞれに1本ずつ鍵が存在した。つまりプレイタウン従業員が直接使用できる7階の階段出入口の鍵は、合計5本が存在したことになる[183][184]。これらの鍵は、プレイタウンが1967年(昭和42年)5月から千日デパートビル7階で営業を始めたときに、千日デパート保安室に対し、借用書を提出して借り入れていたものである[185]。一方、千日デパート保安室は、基本的にマスターキーを保有しているため、それらの鍵を使ってプレイタウン7階の各階段出入口をいつでも解錠できる状態にあった。7階A階段出入口については例外で、デパート保安室のマスターキーの対象外であり、プレイタウン事務所内に保管してある単一キーが唯一の鍵だった[186]

プレイタウン関係者が屋上へ避難する場合に使用できる屋上出入口の鍵の保管状況については、E階段の屋上出入口の鍵1本のみがプレイタウン事務所内に保管されていた[186]。残りの「階段A、F」の屋上出入口の鍵は、プレイタウン事務所内に保管されておらず、千日デパート保安室にのみ単一キーが保管されていた。それは階段Bの屋上出入口についても同様で、プレイタウン事務所内にそれらの屋上出入口の鍵は存在しなかった。プレイタウン従業員専用となっていたB階段の屋上出入口は通常において使用不可になっていた[130][186]。これらのことから、プレイタウン関係者の手によって直接開錠可能な屋上の出入口は、E階段が唯一だった[183][184]

階段出入口の施錠

前記のとおり、プレイタウンに出入り可能な7階の各階段出入口は、B階段(常時解錠)およびE階段(基本的には常時施錠だが随時解錠可)出入口を除いてプレイタウン営業中においては常時施錠されていた。またF階段電動シャッターについても常時電源は切られており、開閉することはできなかった(非常時は開閉可能)[187]。この措置の理由は、千日デパート側からすれば、風俗営業店に出入りする客がデパートの売場内に入ったり通り抜けたりすることが保安上において、また風紀上においても好ましくなく、常時施錠することが不可欠であったからである[116]。また、プレイタウン側からすれば、平常時の営業において、従業員専用エリアに面していない階段出入口(A、F階段出入口)を常時施錠しておくことは、客の無銭飲食防止や防犯上の観点からも都合が良かったのである[116]。またこれらの措置は、大阪府公安委員会からの指導に基づいて取られていた[130][131]。プレイタウンに風俗営業の許可を与える際に「風俗営業等取締法・第二条」または「大阪府施行条例・第四条」の規定に従って「善良な風俗を害する行為を防止する」という観点から「7階に出入りできる階段出入口の防火扉と防火シャッターは、非常時以外に解放してはならない」という条件がつけられていた[131]。千日デパートの売り場部分とプレイタウン営業エリアとを施錠によって区画することについては、「2種類の施錠方法」が存在した。一つは常時開放が許されない「閉鎖(如何なる場合も扉の使用そのものが不可)」、もう一つは営業中のみ施錠状態にする「常時閉鎖(基本は閉鎖だが任意で解錠することは可能)」で、千日デパート(日本ドリーム観光)がプレイタウンの営業許可申請を出した時には「7階A階段出入口」「7階F階段シャッター」「7階F階段両開き鉄扉」「7階E階段出入口」を「常時閉鎖」として申請していた[130]。営業中の「常時開放」を許可されていたのは、7階プレイタウンでは「B階段出入口」だけである。プレイタウンで「閉鎖」に該当する階段出入口は存在しないが、B階段屋上出入口は常時「使用不可」となっており、この措置は「閉鎖」に該当する[130]

千日デパート側との連絡体制

非常時における千日デパートとプレイタウン間の連絡体制は、規約や規則などで決められていたものは何もなく、火災の通報についても平時からの申し合わせは何もなかった。また、デパートビル閉店時の保安係による巡回においてもプレイタウン営業中は7階の巡回は行われておらず、プレイタウン閉店時の深夜と早朝帯だけデパート保安係による巡回の対象になっていた[116]

宿直

千日デパートでは、各テナントの夜間の宿直を認めていなかったが、例外的にプレイタウンだけは独自に宿直員を置くことが認められていた[116]。宿直の人員は計2人で、プレイタウン男子従業員の1人が宿直員として、またプレイタウン専属の男性保安員が1人、プレイタウン閉店後の店内に宿直し、保安業務にあたっていた。勤務時間は21時30分から翌午前10時30分まで。その間に3回の店内巡回(0時、2時、7時)を行うことになっていた[116]








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