ローマ法
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歴史
十二表法先史(王政期)
ローマ建国の時期は明確になっていないが、ロームルスとレムスに始まる伝説はともかく、少なくとも考古学的には紀元前8世紀に遡ることができるとされており、一人の王が貴族(パトリキ)と平民(プレブス)を統治する王政がとられていた。先住民は、「父たち」と呼ばれ、平民は後に移住してきた人々であり、王政の最後の3代の王がエトルリア人であったことから多民族国家であったと考えられている。平民は王の選定にあたり、クリア民会を通じて政治に参加したが、王の「就任式」[注 3]には鳥卜官(アウグル)と呼ばれる神官が関与していた。当時(紀元前754年 - 紀元前201年)の市民法[注 4]は、ローマ市民にのみ適用され、鳥卜官に象徴される現代ではその詳細は不明な当時の宗教と密接に結びついた原始的で儀式的な性質を有しており、厳格な形式性、記号性及び保守性を特徴としていた。
ローマ法の発展が始まった日を正確に特定することはできないが、内容まである程度判明する最初の法的文書は、十二表法である。もっとも、原始的儀式と法的理論を結びつけた握取行為[注 5]のように重要な法律行為のほとんどは、十二表法が成立する前の王政期にすで成立・発展していたのであって、王政が倒れ共和政期に入ってから、その将来の方向性が定まった。
そもそもローマ人には法を法典化しようという一般的な傾向はなかった。そのために、ローマ法が法典化されたのは、ローマ法の歴史の中でも最初(十二表法)と最後(ユスティニアヌスの『市民法大全』)のみであり、ローマ法は長い年月をかけて歴史的に発展した不文の慣習法であった。共和政期に十二表法によって定まった方向性が帝政がとられた古典期に多くの法学者によって理論的に体系化・精密化していって発展し、その成果を集大成して法典化したのがユスティアヌス帝期の市民法大全てみある。したがって、ローマ法の歴史は、大きく分けて十二表法成立期、古典期とユスティニアヌス法成立期によって区分される。
王政末期から共和制初期には、開戦和平に対する権限を有していた武装集団であったケントゥリア民会が法律を制定し、上級政務官を選定する権限を有するようになっていった。
十二表法成立期(共和政期)
この時代に重要な法源となったのが、パトリキとプレブスとの間の闘争の結果として制定されたと伝承に残る十二表法である。十二表法は紀元前449年に十人委員会[注 6]によって起草された。その断片が記録されて残っているが、そこから分かるのは、十二表法は近代的な意味での法典といえるものではなかったということである。十二表法は、いかなる事案にも法的解決を与えるような適用可能なあらゆる規則を完全かつ首尾一貫した体系として提示することを目的としたわけではなかった。
そのため、その後、十二表法を補完し、修正するためにいくつもの法が制定されていくが、それには、紀元前445年のカヌレイウス法(パトリキとプレブスの婚姻[注 7]を認めたもの)、紀元前367年のリキニウス・セクスティウス法(公有地[注 8]の所有に制限を設け、執政官の1人をプレブスとすることを保障したもの)、紀元前300年のオグルニウス法 (プレブスにも神官になる道が開かれた)などがある。
紀元前287年のホルテンシウス法は、平民会[注 9]の決議[注 10]に全市民を拘束する権限を与え、以後平民会は大きな権限を持つようになった。平民会が議決した最初の法は、紀元前286年のアクィリウス法であり、これは他人の奴隷または大型の家畜を不法に殺害した者に一定の銅貨を支払うべきことを定め、不法行為法の原点とされている。
十二表法は、その制定当時に既に存在していた慣習法を変更することを意図した個別的な規定をいくつも集めたものであるが、これらの規定の中で最も大きな部分を占めるのは、私法と民事訴訟に関するものであった。そのためローマ法は私法を中心に発展していくことになる。もっとも十二表法は、あらゆる法分野に関係しており、これをなるべく広く柔軟に解釈していくことによって妥当な結論を得ようとする傾向を生み出した。そのため、「十二表法はすべての法の源である。」[注 11]と言われた。
ローマのヨーロッパ法文化に対する最も重要な貢献といえるのは、よく練られた成文法が制定されたことではなく、ギリシャ哲学の科学的方法論を法律問題(ギリシャ人自身はこれを科学として取り扱ったことはなかった)に適用するヘレニズム法学と呼ばれるローマ法学の成立と専門家集団としての法律家の出現である。
ローマ法学の起源はグネウス・フラウィウスの伝説に求められる。フラウィウスの時代の前には、法廷において訴訟を開始するために用いるべき術語を集めた式文集は秘密のもので、神官にしか知られていなかったといわれている。フラウィウスは、紀元前300年ころ、これを盗み見て式文集を出版し、以後、神官でなくてもこれらの法的文書を探求することができるようになったとされている。この伝説が信用できるか否かはともかく、紀元前2世紀には、法律家の活動が盛んになり、法学論文が多数書かれるようになったのは事実である。共和政時代の有名な法律家の中には、 法のあらゆる側面についての膨大な論文を書き、後世に多大な影響を与えたクィントゥス・ムキウス・スカエウォラや、キケロの友人であったセルウィウス・スルピキウス・ルフスがいる。それ故、紀元前27年に共和政ローマが倒れ、代わって元首政という独裁体制が成立したころには、既にローマには非常に洗練された法制度と一新された法文化が存在していた。
古典期前
おおよそ紀元前201年から紀元前27年までの間には、法が時代の必要に合わせてより柔軟に発展していった。第二次ポエニ戦争で勝利したローマは、その勢力の拡大と共に外国人に関する法律問題に対処する必要が生じたが、古い形式的な「市民法」はこれに対処することができなかった。十二表法で定められた民事訴訟手続は、ローマ市民のみに適用され、確定文言によって訴権を定める厳格な形式性・保守性を特徴とする儀礼的なもので、一度間違えるとやり直しがきかず、原告が敗訴するという硬直性を有していた。
このような必要に応じて法務官法[注 12]ないし名誉法[注 13]が登場すると、古い形式主義を修正する万民法[注 14]という新しいより柔軟な原理が採用された。新たな必要に法を適応させてゆくという方法論は、法律実務や公職者、そして特に法務官にはすっかり定着した。法務官は立法者ではなく、告示[注 15]を発する場合にも、技術的には新しい法を創造したわけではなかった。しかし、実際には、法務官が判定した結果は法律上保護され(訴権の付与)、事実上新しい法規制の源となることもしばしばあった。後任の法務官は前任の法務官の告示に拘束されなかったが、前任者の告示が有用なものであることが明らかになれば、後任者もその告示を援用して判定を示していた。このようにして永続的な内容が創造され、告示から告示へと受け継がれていった[注 16]。
こうして、時代の流れを超えて、法務官法という新しい体系が登場し、市民法と併存しながら、これを補充し、修正していた。実際にも、有名なローマ法学者アエミリウス・パーピニアーヌスは、法務官法を次のように定義した。「法務官法は、市民法を公共の利益のために補充し、あるいは修正するために、法務官によって導入された法である」[注 17]。
やがて方式書訴訟は、ローマ市民にも適用されるようになっていき、十二表法で定められた形式的な民事訴訟手続は廃止され、後に市民法と法務官法は市民法大全において融合するに至る。
古典期
紀元前50年ころから紀元後230年ころまでを古典期という。紀元前27年、オクタウィアヌスが元老院からプリンケプス(元首)として多くの要職と「アウグストゥス」(尊厳なる者)の称号を与えられると、共和政の名目の下、帝政が開始する。アウグストゥスは、極めて優秀と認められる法学者に回答権[注 18]を与え、このことがローマ法とローマ法学の発展を促した。この時代の最初の250年間は、ローマ法学が最高度に達し、完成をみた時期である。この時期の法律家が文章と実践の両面で到達した成果がローマ法の独特の姿を形作っている。
3世紀になると、民会による立法はその重要性をほぼ失い、皇帝による勅法が重要な法源となっていった。その際、法律家は様々な役目を果たし、彼らは民間の訴訟当事者の求めに応じて法的意見を述べた。彼らは裁判を運営することを任された公職者(その最も重要な者が法務官)に助言した。法務官は、その在任期間の最初に公布する告示において、その任務をいかに遂行するのか、及び特定の手続を運営する準則となるべき式文集を明らかにしたが、法律家は法務官のこの告示の起草に助力した。法律家の中には、自ら裁判部門や行政部門で高位に就く者もあった。
法律家は、あらゆる種類の法注釈書や取決めも産み出した。130年ころ、ハドリアヌスの命によってサルウィウス・ユリアヌスは『永久告示録』を編纂し、これ以降の法務官は全てこれを用いることとなり、法務官法はその発展を止めた。この告示は、法務官が訴訟を許し、答弁を認めるあらゆる事例の詳細な説明をその内容としていた。そのため、この標準告示は、公式には法としての強制力を持たなかったけれども、包括的な法典にも似た機能を果たすことになった。そこに法的申立てを成功させるために必要な条件が示されていたからである。この告示はそれ故ユーリウス・パウルスやドミティウス・ウルピアヌスのような後代の古典期法学者が法注釈書を拡充する際の基礎となった。
古典期前や古典期の法学者が発展させた新しい概念や法制度は枚挙にいとまがない。ここではそのうちいくつかを例として挙げる。
- ローマ法学者は物を利用する法的権利(所有権)とそれを利用したり操作することができる事実上の能力(占有)とを明確に分離した。また、彼らは、法律上の義務の原因としての契約と不法行為との間の区別を見出した。
- 大陸法系の法典に規定がある契約の標準類型(売買、雇用契約、貸借、役務契約。日本の民法学では有名契約という)とこれらの契約相互間の特徴付けはローマ法学によって進められた。
- 古典期の法律家ガイウス(160年ころ)は、あらゆる問題を「ペルソナ」(人)と「レス」(物)と「アクチオ」(訴権、訴訟)に区分し、この区分を基礎として私法の体系を発案した。この体系は何世紀もの間用いられた。その業績は、ウィリアム・ブラックストンの『イングランド法注解』のような法書やナポレオン法典の制定にも影響を及ぼしている。日本の民法総則や商法において「人」「物」「行為」(ただし、商法には「物」はない)の順で条文が分類され並んでいるのもこの影響である。
紀元後212 年にカラカラ帝が帝国内の全住民にローマ市民権を拡大すると、市民法・万民法という区別はその意義を失ったが、それは現状を追認しただけでほとんど変化は感じられなかった。外国人に対するローマ市民権の付与という名目とは逆に、実際には、自然法ともいうべき合理性・公平性を有するに至った万民法がもともとのローマ市民に適用されていくという歴史を辿ったからである。
古典期後
3世紀中葉から、ローマ帝国では、法文化の刷新が次々に進むような条件が揃わなくなり始めた。皇帝は政治生命のあらゆる場面で親政の強化を目論み始め,政治的・経済的状況が全般的に悪化し、共和政体の特徴をいくらか留めていた元首政という政治制度も、君主政という絶対君主制に変容し始めた。法学や法を、絶対君主が設けた政治的目標を達成するための道具ではなく、学問とみなす法律家の存在は、新秩序にはうまく適合しなくなり、著作はほとんど書かれなくなった。3世紀中葉以降の法学者で名前が知られている者は少ない。
395年にローマ帝国が東西に分裂すると更に西方ではローマ法は衰退していった。法学と法教育は帝国の東側である程度続いたが、476年にゲルマン人の一支族であるフランク人が西ローマ帝国を滅ぼすと古典期の法の精妙な議論は軽視され、ついには忘れ去られた。古典期の法はいわゆる卑俗法[注 19]に取って代わられた。ガイウス、ウルピアヌスなど古典期の法律家の著作やテオドシウス法典はまだ知られていたものの、その内容はあまりに高度であると考えられ、ゲルマン的慣習に適するように書き換えられてしまった。その結果、アラリック抄典などが編纂された。
ユスティニアヌス法成立期
東ローマ帝国においては、古代ローマ帝国最後の皇帝であるユスティニアヌス帝が市民法大全を創造した。ユスティニアヌス1世は法務長官トリボニアヌスをはじめとする10名に、古代ローマ時代からの自然法および人定法(執政官や法務官の告示、帝政以降の勅法を編纂させ、完成した『旧勅法彙纂』を529年に公布・施行した。ついで、トリボニアヌスを長とする委員に法学者の学説を集大成させた。これが533年に公布された『学説彙纂』である。これと同時に、初学者のための簡単な教科書『法学提要』も編纂させ、これまた533年に公布・施行された。このあと、新しい勅法が公布されており、かつ『学説彙纂』や『法学提要』の編纂によって、『旧勅法彙纂』を改定する必要が生じた。ユスティニアヌス帝はトリボニアヌスをして新たに勅法の集成を命じた。これで生まれたのが『勅法彙纂』であり、534年に公布・施行された。
ユスティニアヌス法成立期後
東ヨーロッパのローマ法
東ローマ帝国においては、ユスティニアヌス法典が法実務の基礎となった。レオーン3世は、8世紀前半にエクロゲー[注 20]という新たな法典を公布した。
9世紀には、バシレイオス1世とレオーン6世がユスティニアヌス法典中の勅法彙纂と学説彙纂を総合的にギリシャ語に翻訳させ、バシリカ法典として知られるようになった。ユスティニアヌス法典やバシリカ法典に記録されたローマ法は、東ローマ帝国の滅亡とオスマン帝国による征服の後でさえ、ギリシャ正教の法廷やギリシャにおいては法実務の基礎となり続けた。
西ヨーロッパのローマ法
西ヨーロッパでは、ユスティニアヌスの権威はイタリア半島やイベリア半島の一部までしか及ばなかった。東ローマ帝国が東ゴート王国を滅ぼし、わずかな間ではあるが、イタリア半島を制圧したことから、ローマ・カトリック教会がユスティニアヌス法典の保存者となった。
その他の地域では、ゲルマン諸王が独自に法典を公布し、多くの事案で、かなり長い間、ゲルマン諸部族には彼ら独自の法が適用されたが、ローマ市民の末裔には卑属法が適用されていた。もっとも、それらの中にも先行する東ローマの法典の影響を確かに見て取ることができるが、中世初期には法実務に対する影響力はわずかであった。ローマ法は、教会法に影響を与えることにより細々と生き続けていた。西ヨーロッパでもユスティニアヌス法典のうち勅法彙纂と法学提要は知られていたが、勅法彙纂は雑多な法の集合にすぎず、法学堤要は初心者向けの内容にすぎなかった(それでも当時のゲルマンの法律家のとってはその内容は難解で十分に理解できるものではなかった。)。西ヨーロッパでは、学説彙纂は何世紀もの間おおむね無視されていたが、その理由はあまりに大部で理論的に難解であったことにあり、十字軍をきっかけにヘレニズム文化がイスラムを通じて伝播されることによりようやく学説彙纂の真の価値が再発見される下準備が整った。
1070年ころ、イタリアで学説彙纂の写本(いわゆるフィレンツェ写本)が再発見された。この時から、古代ローマの法律文献を研究する学者が現れ、彼らが研究から学んだことを他の者に教え始めた。こうした研究の中心となったのはボローニャだった。ボローニャの法学校は次第にヨーロッパ最初の大学の一つへと発展していった。中世ローマ法学の祖となったのはイルネリウス[注 21]であり、難解な用語を研究し、写本の行間に注釈を書いたり[注 22]、欄外に注釈を書いたり[注 23]したことから註釈学派と呼ばれた。ボローニャ大学でローマ法を教えられた学生達は、皆ラテン語を共通言語に、後にパリ大学、オクスフォード大学、ケンブリッジ大学などでローマ法を広め、西欧諸国に共通する法実務の基礎を築いた。
14世紀から15世紀にかけてバルトールス・デ・サクソフェラートを代表とする註解学派と呼ばれる一派がおこり、「バルトールスの徒にあらざるものは法律家にあらず」とまで言われた。彼らは、ローマ法の多くの規範が、ヨーロッパ中で適用されていた慣習的な規範よりも、複雑な経済取引を規律するのに適していることに着目し、推論によって抽象的な原理を導き、当時の経済状況に合わせた自由な解釈を行なった。このため、ローマ帝国の滅亡から何世紀も経った後に、ローマ法や、少なくともそこから借用した条項が、再び法実務に導入され始めた。多くの君主や諸侯がこの過程を活発に支援した。彼らは、大学の法学部で訓練を受けた法律家を顧問や裁判担当官として雇い入れ、例えば、有名な「元首は法に拘束されない」[注 24]といった法格言を通じて自らの利益を追求した(参考:主権)。中世においてローマ法が選好された理由はいくつかある。それは、ローマ法が、財産権の保護や、法主体及びその意思の対等性(特定の富裕者、大企業、権力者といった強者とそれ以外の弱者との間の契約であっても、強者の意思が弱者に優越するというものではないというイメージで捉えられたい。)を規定していたからでもあるし、ローマ法が遺言によって法主体が財産を随意に処分し得る可能性を規定していたからでもある。このように発展してきたローマ法が教会法やゲルマンの慣習、特にレーエン法と呼ばれる封建法の要素と混交された結果、ある法制度が出現した。この法制度は、大陸ヨーロッパの全域(及びスコットランド)に共通のものであり、ユス・コムーネと呼ばれた。このユス・コムーネやこれに基礎をおく法制度は、通常、大陸法[注 25]として言及される。
16世紀中葉までに、再発見されたローマ法はほとんどの西欧諸国における法実務を支配するに至り、ローマ法の継受がされた。教会法とローマ法の博士をとったものは「両法博士」[注 26]と呼ばれ大きな影響を持った。特に現在のドイツでは、広範な地域で、ドイツ法に強い影響を与えたため、これを「包括的継受」[注 27]という。17世紀になると、ドイツでは、ローマ法が自国内の各領邦に共通に適用される普通法[注 28]として強い影響を与えるとともに、各領邦の社会情勢に応じて自由にローマ法を解釈するようになり、このような解釈態度は「パンデクテンの現代的慣用」[注 29]と呼ばれた。
イングランドだけは、ローマ法を部分的に継受するにとどめた。その理由の一つは、ローマ法が再発見された当時、イングランドでは既にコモン・ローが成立し、発展を始めていたという事実である。ローマ法が神聖ローマ帝国やカトリック教会、絶対主義を連想させるというのも一つの理由にあげることもできるが、英国法の歴史から明らかなように、スコットランドがイングランドに対抗するという理由から大陸法を継受したという事実がイングランドにとってローマ法をますます受け入れ難いものとした。 この結果、イングランドの制度であるコモン・ローは、ローマ法を基礎とする大陸法と並立して発展していった。とはいえ、「先例拘束の原則」のようにローマ法由来の概念もコモン・ローに入って来ている。特に19世紀初頭、ウィリアム・ブラックストンのように、イングランドの法律家や裁判官は意識的にヨーロッパ大陸の法律家や直接ローマ法から規則や発想を借用しようと努めた。また、イングランドの「海事裁判所」はコモン・ローを使わず、ユス・コムーネを使用していた。
フランスでは、16世紀になると、ルネサンス・人文主義を思想的背景に、文献学的・歴史学的にローマ法大全の古典古代の法文を厳密に探求することを掲げる人文主義法学と呼ばれる一派がおき、バルトールス学派を批判した。また、神聖ローマ帝国に対抗するという政治的な理由から早くからローマ法の影響を脱し、独自のフランス法が発展をみていたが、1804年、フランス民法典が施行されると、19世紀のうちに、多くのヨーロッパ諸国では、フランス法を模範として採用するか、自国固有の法典を起草するかのどちらかになって国家が法典化に乗り出した時に、ローマ法を実際に適用する動きや西欧流のユス・コムーネの時代は終わりを迎えた。
もっとも、当時のドイツは、各領邦が分裂した政治的状況にあったため、統一的な法典を制定することを主張するゲルマニステンと反対派のロマニステンの法典論争がなされたが、結果的には、ドイツ民法典[注 30]が1900年に施行されるまで、原則的には普通法たるローマ法が適用され続けた。
日本は明治期に主にドイツを経由して大陸法を継受したので、日本法は、間接的にローマ法の強い影響を受けている。
- ^ 羅: ius commune(ユス・コムーネ)
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- ^ 羅: inauguratio
- ^ 羅: ius civile quiritium
- ^ 羅: mancipatio(マンキパティオ)
- ^ 羅: decemviri legibus scribundis
- ^ 羅: ius connubii
- ^ 羅: ager publicus
- ^ 羅: concilium plebis
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- ^ 羅: ius praetorium(ユス・プラエトリウム)
- ^ 法務官がこの新たな法体系創造の中心となったことと、法務官の地位が名誉職であったことにより、このように呼ばれる。
- ^ 羅: ius gentium(ユス・ゲンティウム)
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- ^ 羅: edictum traslatitium
- ^ 羅: Ius praetorium est quod praetores introduxerunt adiuvandi vel supplendi vel corrigendi iuris civilis gratia propter utilitatem publicam.
- ^ 羅: jus publice respondere
- ^ 独: vulgar Recht、仏: droit vulgaire
- ^ 羅: Ecloga
- ^ 羅: Irnerius
- ^ 羅: glossa interlinearis
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- ^ 羅: Princeps legibus solutus est.
- ^ 英語圏の国では「civil law」と呼ばれる。
- ^ 羅: doctor utriusque juris
- ^ 羅: rezeption incomplexu
- ^ 独: Gemeines Recht
- ^ 独: usus modernus Pandectarum
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- ^ 羅: praetores peregrini、単数形: praetor peregrinus
- ^ 英: naturalis ratio
- ^ 羅: ius publicum
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- ^ 羅: ius cogens
- ^ 羅: ius dispositivum
- ^ 羅: ius non scriptum
- ^ 羅: ius scriptum
- ^ 英: laws
- ^ 英: plebiscites
- ^ 羅: senatus consulta
- ^ 羅: principum placita
- ^ 羅: responsa prudentium
- ^ 羅: legis actio
- ^ 羅: legis actio sacramento
- ^ 羅: sacramentum
- ^ 羅: legis actio per iudicis arbitrive postulationem
- ^ 羅: in iure
- ^ 羅: apud iudicem
- ^ 羅: legis actio per manus iniectionem
- ^ 羅: litigare per formlas
- ^ 羅: iudex privatus
- ^ 羅: recuperatores
- ^ 羅: officium
- ^ 羅: extra ordinem
- ^ 羅: cognitry
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