ポルノの女王 にっぽんSEX旅行 スタッフ

ポルノの女王 にっぽんSEX旅行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/07 16:47 UTC 版)

スタッフ

  • 監督:中島貞夫
  • 脚本:金子武郎・中島信昭
  • 企画:天尾完次・三村敬三
  • 撮影:国定玖仁男
  • 美術:雨森義允
  • 音楽:船木謙一(荒木一郎[7] 
  • 録音:溝口正義
  • 照明:金子凱美
  • 編集:神田忠男
  • 助監督:篠塚正秀

製作

東映はサンドラ・ジュリアンに続いて、スウェーデンポルノ女優クリスチーナ・リンドバーグを招聘し、1973年鈴木則文監督で『不良姐御伝 猪の鹿お蝶』を制作した[15][16][17]1972年東映洋画を設立した岡田茂東映社長は、「4年後を目標に邦画・洋画の二本立て興行を実施する」とラッパを吹き[18][19]、海外での映画作品の買付けや東映作品の売り込み等で、海外との取引も増え[18][15]、外国のポルノ女優の招聘は自然な流れであった[16][18][19]。日本への洋画ポルノ(洋ピン)輸入は、大手映画会社である東映が参入して一気に加速したもので[15]松竹系のグローバル・フィルム、独立系のニューセレクトなどが追随し[15]、1970年代に大きなブームとなった[17][20]。著名な東映実録路線第一弾『仁義なき戦い』の公開はこの年の正月で、本作製作当時の東映は陰りが見えていた任侠路線に代わる新しい"セックス路線"が開拓できないが模索中であった[13][17]

キャスティング

クリスチーナ・リンドバーグは、東和が配給した1972年の映画『露出 (Exponerad) 』の招きで同年1月10日来日した[2][21][22][23][24][25]。"ゴールデンバストの女王""最高に味のよい女"などと事前に宣伝文句を作って煽っていたため[24]、東京で行われた記者会見には招待したマスメディアがほぼ全員出席という珍事が発生[24]。クリスチーナは当時20歳で[26]、日本滞在中に日本でいう成人式を迎え、伝えられたスリーサイズは、B90cm、W53cm、H91cm[17]。"本場"スウェーデンからのポルノ女優来日に、マスメディアは「どんなハレンチな女優が来るのか」と期待させたが[26]、しこたま公害関係の本を持ち込み、「東京は空気も水も汚れているし、都市計画がなってない」などと一席ぶち[24][26]、肩透かしを喰らわせた[26]。しかし脱ぐと90センチのボインをユラユラさせ、会場はしばし溜息とシャッター音のみ[24]。当時の日本のポルノ女優は、いささか崩れた感じの肉と脂の偉大な塊りイメージだったため[26]、意外や楚々たるお嬢さんの出現に、記者団は当惑気味の一幕と相成った[26]。「スウェーデンの吉永小百合」などとピント外れな表現をするマスメディアも一部にあり[25]、年頃の娘を持つ中年記者は「イヤー、ポルノ女優、ポルノ女優っていうからゴツイ女かと思ってたんだが、あんまり可愛いらしんでびっくりしたよ。まるで人形みたいじゃないの。あれじゃ裸にするのがかえって痛々しいな」などと言ったら[24]、独身の記者は「向こうのポルノ女優って大体可愛いんだよ。12歳の女の子が脱ぐ時代だよ。ポルノはここまで来てるのさ」などと反論するなど会見は大いに盛り上がった[24]。その後の日本縦断ハダカ記者会見では、無理な注文にもケロリとして大胆に脱ぎまくった[26]。日本のマスメディアの対応に「日本人が異常なほどポルノに関心を持つことにはビックリしました。セックスを自然なものとして考えてないのは残念ね。詳しい知識がないから、妄想ばかりたくましくなるんじゃないかしら」などと本場の裸の哲学を述べた[26]

この後、洋画の買付で動いていた東映洋画国際部の社員がパリの空港でクリスチーナにバッタリ会い[25]、その場で出演交渉[25]。スンナリOKし、東映のポルノに出演となった[15][25][27]東宝も傍系の東和がクリスチーナを最初に来日させた関係で[21]、クリスチーナの主演映画を計画していた[21]。クリスチーナが日本で撮った『不良姐御伝 猪の鹿お蝶』と本作のギャラは各300万円と破格の金額[17][25]。当時は、岩下志麻や、若尾文子浅丘ルリ子といったトップ女優でも映画のギャラは300万円以下で[25]、『不良姐御伝 猪の鹿お蝶』で共演した東映専属の池玲子は、その10分の1の30万円で[25]、あまりの外人(外国人)タレント信仰にマスメディアから物笑いの種になった[25]。本作の製作費は3000万円[13]

サンドラ・ジュリアンは、大人っぽいクールビューティータイプだったが[15]、クリスチーナ・リンドバーグは小柄でロリータ顔の美少女風ながら、ダイナマイトボディを持つその後のロリ系ポルノ女優の先駆者だった[15]1970年カンヌ国際映画祭は、第一回国際ポルノ映画コンクールが開催され[23]、20歳のクリスチーナも『露出 (Exponerad) 』のプロモーションでカンヌを訪れ[23]、カメラがわっと取り巻いて人気をさらったヨーロッパでも清純なポルノ女優という評判を呼んだ女優だった[23][28]。映画公開時は22歳だったが、年齢より若く見え、日本人は今も昔も幼げな少女顔が好きな人種といわれるため[15]、こんな少女がスクリーン上でセックスするというインパクトは強烈だった[15]。ロリータ顔や清純という言葉は、日本のマスメディアが表現しただけでなく、クリスチーナ自ら、「私はスウェーデンではセックス・シンボルとして扱われているわ。でもそれは、私の子供っぽい清純な顔つきのおかげで、汚い感じを与えないからだと思うの。清純な顔つきときれいな体をしているということで幸運にも女優になったけど、他のことでも評価される女優にならなければならないと思っています。続けられる限り女優は続けたいけど、もしダメなら学校に戻って広告関係の勉強をしたい」などと話し、大学入学資格試験にもパスしている大学生の少ないスウェーデンではエリートで、意外なインテリぶりを見せた[26]。またサンドラはフランスの女優だったが、クリスチーナはスウェーデンの女優で、当時のスウェーデンは、日本では"フリーセックスの国"[17][29][30]、"ポルノの本場"[23][26][27]などと盛んにマスメディアが騒ぎ立て[31]、そのようなイメージで捉えられていたため、本場スウェーデンのポルノ女優という日本のスケベ男を扇情させるには充分な宣伝効果があった[15]。当時は西洋女性の肉体に関して、今日では想像も出来ないくらいの憧憬や渇望があった[32][33]。クリスチーナ・リンドバーグは、近年では本作の翌年公開されたスウェーデンの本番映画片目と呼ばれた女(They Call Her One Eye)』で演じた隻眼の女殺し屋・フリッガから、クエンティン・タランティーノ監督が『キル・ビル Vol.2』でダリル・ハンナが演じたエル・ドライバーを着想したことは映画ファンにはよく知られる[2][15][34]

『不良姐御伝 猪の鹿お蝶』のプロデューサー・天尾完次が『不良姐御伝』が時代劇明治の文明開期)だったから[15]、現代劇と両方でクリスチーナを売ろうとクリスチーナのスケジュールを余らせ[15]、中島貞夫に「添え物(併映作)で何をやってもいいから」とクリスチーナ主演作を条件にオファーを出したといわれる(中島はフリーの監督)[12][35]。スター俳優を中心に据えたシステムの徹底する東映は[9]、監督の企画が採用されることはほとんどないが[9]、クリスチーナ・リンドバーグの主演と期日までに作ればいいという条件のみで、内容は放任されため[9]、中島貞夫はその機会を逃さず、仲の良い荒木一郎とクリスチーナをどう絡めるかを考え[36]、自身のやりたかった映画を作った[9][36]

クリスチーナの相手役を演じる荒木一郎は、羽仁進監督『愛奴』ロケ中の1969年2月7日[37]女優志願の女子高生への強制猥褻罪容疑で町田警察署逮捕され[37][38]、23日間に渡り拘留され[38][39]、同年2月28日、処分保留で釈放された後、4月2日不起訴処分となった[37][39][38]。この事件はマスメディアに大きく報道され、荒木に激しいバッシングが浴びせられ[39]、マスメディアは荒木を徹底的にシャットアウトし[38]芸能界から事実上追放された[37][39]。妻は子供を連れてそのまま離婚[37]。荒木は所属事務所のビクターと相談の上、事務所を辞め、3年間の謹慎となった[40]

しかし皮肉なことに、このスキャンダルが荒木の芸域を一気に広げた[37]。気が弱く、ドジでマヌケな猥褻犯といった役柄は、当時の役者でできるのは荒木しかいないため[37]、当時"不良性感度路線"を邁進していた東映が救いの手を差し伸べ、東映のB級映画に重用した[37]1970年岡田茂プロデュースの渡瀬恒彦のデビュー作『殺し屋人別帳』(石井輝男監督)に出演オファーを受け、映画界にカムバック[41]。ここから天尾完次、中島貞夫、鈴木則文らと東映ポルノの中核を担った[41]。荒木は芸能事務所・現代企画の経営もやっており[5]、東映幹部が荒木を信頼し、東映ポルノの女優のマネージメントを荒木に任せた[5][40][42]池玲子杉本美樹は、最初別の事務所に所属していたが東映が引き抜き、荒木の事務所に預けた[41]。自身で「ポルノの裏の帝王みたいになった」と述べている[41]。東映社長になった岡田茂から「『荒木一郎の暴力とセックス』という題名で映画を作らないか」と言われたこともあるという[41]

中島貞夫は1966年の監督デビュー『893愚連隊』で一緒に仕事をした荒木を高く評価し、以降は荒木が京都滞在中は中島宅に住むほど仲良しになり、本作にも抜擢した[36]。音楽が船木謙一とクレジットされているものがあるのは、荒木が自分の出演している映画で音楽もやるのはイヤという考えがあり、別名義にしたと話している[7]。 

作品の評価

  • 鹿島茂は「わが生涯の純愛映画ベスト3に入れてもおかしくない"異形の愛"の傑作。私は封切り時に見たとき、不覚にもラストで涙をこぼした。それくらい切ない男の純情を謳い上げた純愛映画である。一般に俳優としての荒木一郎というと『白い指の戯れ』(1972年、日活)の拓のような、内面をほとんどのぞかせないハードボイルドな役柄を評価する向きが多いが、それは本作モグラの荒木一郎と合わせて表裏一体としないと、上っ面をかいなでた理解にとどまる」などと論じている[37]

  1. ^ a b ポルノの女王 にっぽんSEX旅行”. 日本映画製作者連盟. 2021年7月15日閲覧。
  2. ^ a b c d クリスチナ・リンドバーグ特集カナザワ映画祭2012 XXXCristina Lindberg Interview at DBCult Film Institute
  3. ^ 遊撃の美学 中島貞夫映画祭 (PDF) 新文芸坐 2014年11月9日~21日
  4. ^ a b c d e f g h Hotwax4 2006, p. 36.
  5. ^ a b c d 「《映画 美女と色男》 インタビュー 荒木一郎 『わが映画人生』 聞き手・高崎俊夫」『文學界』2016年11月号、文藝春秋、162–175頁。 
  6. ^ Hotwax4 2006, pp. 28–32、36.
  7. ^ a b c d e 名作完全ガイド 2008, p. 150.
  8. ^ 脇役名画館 2005, p. 217.
  9. ^ a b c d e アナーキー 2012, p. 156.
  10. ^ デビュー50周年記念 映画特集 荒木一郎の世界シネマヴェーラ渋谷
  11. ^ ICHIRO ARAKI after dark 役者荒木一郎の魅力 ラピュタ阿佐ヶ谷
  12. ^ a b c 「これが男の映画だ! ! 中島貞夫の世界 中島貞夫、この1本!、文・モルモット吉田」『映画秘宝』2009年9月号、洋泉社、65頁。 
  13. ^ a b c 「NEWS OF NEWS スポット」『週刊読売』1973年2月24日号、読売新聞社、34頁。 
  14. ^ モルモット吉田「シナリオ評『バンコクナイツ』」『シナリオ』2017年2月号、日本シナリオ作家協会、102–103頁。 
  15. ^ a b c d e f g h i j k l m n ポルノ・ムービー 2016, pp. 10–23.
  16. ^ a b 桃色映画館 2011, pp. 246–247.
  17. ^ a b c d e f ピンキー・バイオレンス 1999, pp. 248–251.
  18. ^ a b c 「東映不良性感度映画の世界 アラン・ドロンから洋ピンまで東映洋画 文・藤木TDC」『映画秘宝』2011年8月号、洋泉社、61頁。 
  19. ^ a b 「映画界の動き 東映もポルノ着手」『キネマ旬報』1972年6月上旬号、キネマ旬報社、144頁。 
  20. ^ ポルノ・ムービー 2016, pp. 23–30.
  21. ^ a b c 「〈ルック邦画〉 とうとう始まった金髪ポルノ輸入合戦」『週刊現代』1971年10月28日号、講談社、34頁。 
  22. ^ “現代映画72年度公開作品 西独、瑞典映画ガッポリ”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 2. (1971年12月11日) 
  23. ^ a b c d e 「NEWS OF NEWS 私が本場のポルノ女優なのでーす カンヌで評判のスウェーデン娘」『週刊読売』1970年12月17日号、読売新聞社、31頁。 
  24. ^ a b c d e f g 「本場の"ポルノ女優"日本での演技力 スウェーデンから来たクリスチーナ・リンドバーグ嬢言行録」『週刊文春』1972年1月31日号、文春、136–138頁。 
  25. ^ a b c d e f g h i 「ニュース・メーカーズ "スウェーデンの小百合"の露出料はいくらか」『週刊ポスト』1973年2月2日号、小学館、43頁。 
  26. ^ a b c d e f g h i j 「タウン 日本で成人式を迎えたポルノ女優」『週刊新潮』1971年1月29日号、新潮社、13頁。 
  27. ^ a b 「サンデー・トピックスポルノの本場から見事なボインの助っ人」『サンデー毎日』1973年2月4日号、毎日新聞社、46頁。 
  28. ^ 「ポルノ女優なんて……私は生まれたままよ 所変われば品変わるといいますが、これだけは万国共通ってわけ……」『映画情報』1971年10月号、国際情報社、15-16頁。 
  29. ^ “洋画ノート スウェーデンの"セックス女優"チャール、日本になぐり込む”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 10. (1969年9月27日) 
  30. ^ 「タウン 対照的なポルノ女優 二人の来日行状記」『週刊新潮』1973年2月15日号、新潮社、13頁。 
  31. ^ 「日本に押しよせるピンク映画の波」『週刊朝日』1968年8月9日号、朝日新聞社、106頁。 
  32. ^ ポルノ・ムービー 2016, pp. 10–24.
  33. ^ 猛爆撃 1997, pp. 286–287.
  34. ^ 「世界で一番詳しい『キル・ビル』特集 THEY CALL HER ONE EYE」『映画秘宝』2003年11月号、洋泉社、61頁。 
  35. ^ Hotwax4 2006, p. 54.
  36. ^ a b c d 遊撃の美学 2015, pp. 314–320.
  37. ^ a b c d e f g h i 脇役名画館 2005, pp. 29–40.
  38. ^ a b c d まわり舞台の上で 2016, pp. 123–129.
  39. ^ a b c d 「ピンク産業で盛況の荒木一郎 『常識と非常識の間』」『週刊サンケイ』1973年6月16日号、産業経済新聞社、36–38頁。 
  40. ^ a b みんな不良少年だった 1985, pp. 130–131.
  41. ^ a b c d e まわり舞台の上で 2016, pp. 129-151、168-183.
  42. ^ まわり舞台の上で 2016, pp. 129–183.


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