オットー・シュトラッサー ナチ党時代

オットー・シュトラッサー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/07 19:51 UTC 版)

ナチ党時代

グレゴールは遠回しにオットーをナチに誘おうとしたが、オットーはヒトラーを指導者と仰ぐことに反感を持ったため入党を断った。[12] 1923年3月にヴュルツブルク大学で「ドイツの砂糖大根種子培養の発達と意義(Entwicklung und Bedeutung der deutschen Zuckerübensamenzucht)」という論文を提出し博士号を得た後、食糧省や会社の相談役としてザクセンで働きしばらくは政治の舞台からは遠ざかっていた。

私兵を率いてグレゴールも参加した1923年11月のミュンヘン一揆の折にも、彼はマクデブルクにいてこの暴動に参加していない。しかし、初対面のヒトラーに対する印象が芳しくなかったにもかかわらず反動的な政府と闘おうとするヒトラーの一揆はオットーにとってやはり快挙と映ったらしく、将軍や企業家の反動分子にヒトラーが使う色目もこれで終わるものと確信したオットーは、大戦中自分が所属していた旧連隊将校達にルーデンドルフとヒトラーの味方に立つことを勧める回状をまわして彼らから閉め出しをくっている。

一揆の失敗後、ヒトラーが入牢している間グレゴールは無罪になったルーデンドルフやドイツ民族自由党の指導者グレーフェらと組んで国会議員に選ばれルール地方や北ドイツで着々と組織固めをしていた。この新しい情勢下に兄を助けて自分の理念を実現するチャンスを読み取ったオットーは、信頼のおける片腕を必要としていたグレゴールの誘いを受けて1925年の春、ようやくナチ党に加わる。(党員番号 23918)

ベルリンを中心とする北ドイツで、グレゴールや自身が入党を認めたヨーゼフ・ゲッベルスとともにナチス左派の代表格となり、社会主義的な経済政策や、反西欧帝国主義反資本主義の立場からソビエト連邦との接近を主張し民族ボルシェヴィズム的な運動を党内に形成した。

労働運動に積極的に参加し、場合によってはドイツ共産党とスクラムを組んでデモストライキ闘争も行い、ミュンヘンの党本部と敵対していた。

1926年2月14日、ヒトラーは側近シュトライヒャーの牙城バンベルクナチ指導者会議を召集し、ハノーファー会議の非合法性を批判した。会議の結果はナチ左派の完敗だった。シュトラッサー草案の廃止、旧諸侯財産無償没収の主張撤回、ヒトラーによる全地域指導者任命権確立、党内紛争を裁く党法廷の設立とヒトラーによる法廷委員の任命、親ソ外交路線の撤回が決議された。

オットーによると、倫理観に乏しいマックス・アマンにさえ「我が党のメフィストフェレス」と舌を巻かせ[13]、権威に敏感で常に力のある方につきたがるゲッベルスは、あざやかな変身ぶりを示し、ヒトラー派に寝返った。この折、「ヒトラーさん、おかげで納得しました。我々は間違っていました。」とヒトラーにおもねったゲッベルスの姿に、グレゴールは「へどが出そうだった。[14]」という。ゲッベルスはその褒美としてシュランゲの代わりにベルリン管区指導者に任命され、1927年7月4日には、週刊誌「攻撃(Der Angriff)」を出してシュトラッサー兄弟と渡りあう。

しかし、ヒトラーに活動を封じられたとはいえ、グレゴールはなお党内で重きをなしていた。1926年3月、兄弟は「闘争出版社(Kampfverlag)」を設立し、ミュンヘン・ナチの息のかかった「フランツ・エーア社ドイツ語版」に対抗して宣伝活動を続けていた。

ナチのトロツキスト

オットーの国民社会主義に対する確信を深めるひとつの契機となったのは、スターリン一国社会主義への転換とトロツキスト粛清である。スターリンの路線は、自己の民族の生が問題であって、原理理論が問題ではないというあの国民社会主義の第一原理の承認に他ならない。スターリンとトロツキーの闘争は、生と原理との闘争であり、オットーにとって一国社会主義の勝利は彼の信奉する生の哲学の勝利に他ならなかった。

「我々、保守革命家が絶えず意識する事実とは、有機的過程が第一次的なものであって、我々の建築設計図はこの過程の中の設計図に過ぎないということであり、言い換えれば、生と設計図の間に矛盾が起きた場合には、常に正しいのは生の方であって設計図は生に従って変えられなければならないということである。」

このオットーのスターリン一国社会主義観は、明らかにヒトラーに対する態度と矛盾する。オットーが理念や綱領を無視するヒトラーの現実路線に身体を張ってまで反対したのは、理念や党綱領に忠実たろうとした彼のドグマティックな態度から出たものであり、オットーらナチ党内極左一派の粛清を命じたヒトラーのゲッベルス宛の手紙に記されているように、現実路線を優先させるヒトラーからすればオットーは、ドグマを振り回す「草なしの文士」、現実性を欠く「混乱したサロンボルシェヴィキ」、無責任な「ワンダーフォーゲル」に過ぎなかった。 スターリンの現実路線を評価するオットーがそのドグマティズムの立場からヒトラーの現実路線を否定し、自ら「ナチのトロツキスト」の運命を辿ったことは実に皮肉であった。

ヒトラーとの対決

シュトラッサー兄弟の出版活動はライバル誌であるゲッベルスの『攻撃(Der Angriff)』誌との激しい対立を生み、双方の読者間の乱闘騒ぎにまで発展していた。『闘争出版社(Kampfverlag)』がヒトラーにとって目障りで脅威の存在となっていたことはいうまでもない。こうして、1930年1月、ヒトラー、グレゴール、オットー、ハンス・ヒンケルドイツ語版の会談がヘスやアマンも交えて開かれた。

ヒトラーは、出版活動の自粛と『闘争出版社』を買い取る意向を示した。軟化した態度を示すグレゴールの方は示談にのろうとするが、オットーは激しく反対しヒトラーと論争に至った。

オットー「ヒトラーさん、我々は騙されませんぞ。問題は出版社ではない。問題は政治です。我々が以前から社会主義の立場に立ち、ばかりでなくの方にも敵を見出だすものであることは、御存知の通りです。反マルクス主義だけを説いて、資本主義や反動に対しても同じ精力をもって反抗しない限り『民族物見(Völkischer Beobachter)』の政治は片手落というものです。」 怒るヒトラー「このようなナショナル・ボルシェヴィズムの思想を俺は間違いなく禁じたはずだ。」

会話の模様は10年前に初めて2人が顔合わせした折と少しも変わっていなかった。2人の会話は平行線を辿り、さすがのヒトラーももてあまし、オットーとヒンケルに対して議員候補の席を提供した上にオットーのいい値で出版社を買い取る提案までしたが、結局話は不調に終わった。[15]

この頃オットーは、「俺は運動の便所掃除夫のような気がするよ[16]」と弱音を吐くグレゴールのなげやりな自嘲的態度が気になっていた。そうかと思うと、グレゴールは強気をみせることもあった。オットーが彼に対して、「我々は社会主義者だが、ヒトラーはすでに資本家どもと協定している。我々は共和派だが、ヒトラーは諸侯らと手を組んでいる。我々は自由主義的で自分たちの自由を要求するが、また他人の自由も尊重する。これに反してヒトラーは、側近らにヨーロッパの支配について語っている。我々はキリスト教徒だ。ヒトラーは無神論者だ・・・。」と、ヒトラーとの折り合えぬ対立点を列挙して兄に早くヒトラーと手を切るよう迫ると、帰ってくる返事はいつもと同じく「落馬してたまるか。俺があいつを飼い慣らしてやるさ[17]」という具合だった。しかし、初め自信満々に発言していたグレゴールのこの言い慣らされた言葉もこの頃になると、どこか虚ろな自分自身に言い聞かせる自己暗示的な言葉と化していた。 1928年の選挙以降、彼は思想は変わらぬも昔日の闘士から妥協の政治家と化し、ヒトラーのカリスマ的個性を前にして既に政治的死人と化していた。

ヒトラーとの再論争

グレゴールと違ってオットーには、さすがのヒトラーも手を焼いた。1930年4月、ザクセンの金属労働者のスト問題を巡り闘争出版の機関誌「ザクセン物見(Der Sächsische Beobachter)」がスト支持を表明したのに反して、財界やフーゲンベルク鉄兜団といった反動勢力と提携を深めていたヒトラーは、産業界からストに反対しなければナチへの資金援助を打ち切るとの電報を受け取ってオットーにスト支持の撤回を迫ったことは、オットーとヒトラーの仲を更に嫌悪化させることとなった。

ヒトラーにしてみれば、オットーをなんとか押さえ込んで党内の社会主義色を払拭し一掃する必要があった。こうしてヒトラーの会談希望の意向をオットーに伝えるヘスの仲介電話を機にして、1930年5月21日~22日の2日間に渡る議論を『サンスシー・ホテル』でまたもや2人は対決する。

ヒトラーは一方的に喋りまくる男だったことを考えると、オットーとのこの長時間に渡るディスカッションは異例のことで、ヒトラーにしては極めて珍しいことだった。論争の内容は、「芸術問題」、「指導者と理念の問題」、「社会主義問題」、「人種問題」、「外交問題」、「経済問題」と多岐に渡った。 開口一番、ヒトラーは当時、テューリンゲン州の内務大臣ヴィルヘルム・フリックが古くさい芸術観をもつパウル・シュルツェ・ナウムブルクドイツ語版ワイマールの建設・手工業大学の責任者の地位につけたことに対して、ナチ左派の党員がオットーのジャーナル誌上で加えた批判批評を取り上げオットーにかみついた。

[18]

ヒトラー 「『国民社会主義通信』の論文は、我がフリック博士に対する背後短剣である。ナウムブルク氏については、彼は一級の芸術家である。芸術がなにがしの心得ある人ならば誰しも、彼が余人の誰にもまして真の芸術を教える人物であることは分かっている。しかし、君達は、ユダヤ人の新聞とグルになってこの問題に関するフリック博士の決定を妨害しようとしている。シュトラッサー君、君は芸術をちっとも理解していない。古い芸術、新しい芸術なんてものは全く存在しない。ただ一種類の芸術しか存在せず、それはギリシャやゲルマンの芸術だ。芸術には革命紛いのものは存在しないのだ。」

元々、画家志望でいっぱしの芸術家気取りのヒトラーが抱く古い懐古主義的芸術観は、表現主義モダン芸術のなかに革命的意欲を見るオットーの芸術観を是認することはできなかった。 次いでヒトラーは、その非難の矛先をオットーの協力者の論文『忠誠と不忠』に向けた。

ヒトラー 「彼の忠誠観、彼が指導者と理念の間にもうけている区別が党員を反逆に駆り立てている誘因だ」

党綱領の原則に忠実たろうとし、指導者よりも党の理念を優先させるオットーは、綱領を越えて君臨するカリスマ的支配を求めるヒトラーの見解と真向から対立した。

オットー 「否、それは指導者の威信を失墜させる問題ではない。しかし、自由でプロテスタントのドイツ人にとってなによりもまず本来必要なのは、理念に対する奉仕である。理念は起源からいって神聖なものであり、人間はその伝達手段であり言葉が肉化されている肉体に過ぎない。指導者を立てるのは理念に奉仕するためであり、我々が絶対の忠誠を誓うのは理念に対してだけである。指導者は人間であり、過ちを犯すのは人間だ。」

ヒトラー 「そのような考えは最低の民主主義だ。我々はそんなものは真平だ。我々にとっては理念は指導者のことであり、党員各自は指導者に従いさえすればよいのだ。」

オットー 「否、あなたの言われることはカトリックならまったくその通りでしょう。ついでながらイタリアファシズムはそこから刺激を受けたものです。しかし、私の主張しているのは、理念が重大な事柄であり、理念と指導者の間に何らの食い違いが起こるような場合には決定のために個々人の良心が呼び起こされなければならぬということです。」

ヒトラーは神経質そうに膝を擦り付けながら反論した。

ヒトラー 「君の言っていることは組織の解体に繋がる。君もかつては将校だったじゃないか。それに君も知っているように、君の兄さんは必ずしも私と意見が合わずとも私の規律を受け入れている。兄さんを見習いたまえ。彼は立派な人だ。」 オットー 「ヒトラーさん、規律は既存集団を統一する助けとなるに過ぎない。それがその集団を作り出すことはあり得ない。あなたをとりまく下司な人たちの称賛やおべっかで身をあやまることのないようにして頂きたい。」

ヒトラーは懐柔策に出た。

ヒトラー 「君のお兄さんの為に私はもう一度手をさしのべよう。君を全国における宣伝部長にしようと思う。ミュンヘンに来て私の監督の下で働きたまえ。」 オットー 「ヒトラーさん、我々の違った政治観の一致の基盤が見つけられればお受けしましょう。もし了解が上っ面なものに過ぎないのなら、後になってあなたは私があなたを欺いたという感じを抱かれるでしょうし、私としてもあなたが私を欺いたという感じを常に抱かなければならないでしょう。お望みとあれば、ミュンヘンで1カ月過ごして、あなたや、私に対する敵意が歴然としているローゼンベルクと社会主義や外交政策について論じる気持ちはあります。」

オットーに辟易したのかヒトラーは今度はおどしの奥の手を出した。

ヒトラー 「闘争出版社」は我が党にとって有害な企画と私は宣言する。私は如何なる党員にも君の新聞と何らかの関係をもつことを禁じ、君や君の支持者達を君もろとも党から追放する。」

この程度の脅しに竦むオットーではなく、

オットー 「ヒトラーさん、さようなことは貴方には朝飯前でしょうが、それは我々の革命的な社会主義者としての思想における深い亀裂を強調するのに役立つだけです。 「闘争出版社」打倒に対して貴方がくっつけておられる本当の理由は、貴方のブルジョワ諸政党との新たな協調のために、あなたが社会革命と闘おうとしているということだ。」

反動呼ばわりされたヒトラーは激しく抗弁した。

ヒトラー 「私は社会主義者であり、君の金持ちの友人レーヴェントロードイツ語版なんかとは全く類いを異にした社会主義者だ。

私もかつてはしがない労働者だった。君の言っているような社会主義はマルクス主義以外のなにものでもない。

私がやらなければならないのは、君みたいな哀れみの道徳性によって操られることを自らに許さぬ人々を、新たな支配層から選ぶことだ。支配する人間は自分が優等人種に属しているが故、支配する権利をもっていることを知らねばならぬ」

オットーはヒトラーの人種論に反論した

オットー 「ローゼンベルクさんに負うている貴方の人種思想はドイツ国民の創造たるべき国民社会主義の大きな使命と全く矛盾するばかりではなく、ドイツ民族の崩壊をもたらすに似つかわしい。」

ヒトラーはむきになり自分の人種論の十八番をぶちまくった。

ヒトラー 「君が説いているのは自由主義だ。考えられる革命は一つしかない。それは経済や政治や社会の革命ではなく人種革命だ。

それに、権力の座にある優等人種に対する劣等人種との闘争であり、この法則を忘れたあかつきには革命は敗北する。 あらゆる革命は人種的だったのだ。ローゼンベルクの二十世紀の神話を読めば君も納得するはずだ。というのもこの種の中でも最も説得力ある本でヒューストン・チェンバレンの本よりも素晴らしいからだ。 人種の知識が皆無だから君の外交政策観は過っているのだ。 君はインドの独立運動が勇敢なアングロゲルマン人種に対するヒンドゥー教劣等人種の反逆であることが歴然としているのに、公然とインドの独立運動支持を表明したではないか。 ゲルマン民族は世界支配の権利をもつのであり、この権利は我が外交政策の指導原理となるであろう。これが何故スラブタタール人の組織体たるロシアとの如何なる同盟も話にならぬかの理由だ。」

オットー 「しかし、ヒトラーさん、その様な考えは決して外交政策の基盤たり得ない。私にとって大切な問題は政治情勢がドイツにとって有利か、不利かということだけだ。 我々を導くのは共感や敵意の配慮ではない。外交政策の主要目的の一つはヴェルサイユ条約の廃止でなければならない。スターリンであれ、ムッソリーニであれ、マクドナルドであれ、ポワンカレであれ、構わないじゃありませんか。優れたドイツの政治家ならばドイツの利益を優先させるべきです。」

ヒトラー 「ドイツの利益が優先されなければならないのはいうまでもない。それが何故、イギリスとの了解が不可欠であるかの理由である。我々はヨーロッパに対するドイツ・ゲルマン人の支配を確立し、アメリカの協力を得て世界に対する支配を確立しなければならない。我々には陸地、イギリスには海洋だ。」

剛直なオットーを相手にしてさすがのヒトラーもぐったりし、2人は翌日の再会を約して別れた。

翌日には、ヘス、アマン、ヒンケル、グレゴールも加わった。オットーはヒトラーの前に1926年バンベルク会議で否定されたシュトラッサー草案をおきながら切り出した。

オットー 「私と同じように、あなたもまた、我々の革命が政治や経済や社会の分野における全体的な革命でなければならぬと確信しておられるか?あなたの描いておられる革命は、資本主義にもマルクス主義にも反対する革命であるのか? したがって、我々の宣伝がドイツ的社会主義達成の為に等しく双方を攻撃しなければならぬことをお認めになるか?」

ヒトラーは叫んだ

ヒトラー 「その考えはマルクス主義だ!

まごうことなくボルシェヴィズムだ! 民主主義は世界を破滅させた。それにも関わらず君はそれを経済分野に拡大しようとしている。そんなことをすればドイツ経済もおじゃんになってしまうだろう。君は、偉大な学者や、発明家の個人的努力によってのみ達成された人間の進歩を全部御破算にしている」

オットー 「ヒトラーさん、私は人類の進歩など信じてはいない。これらの偉人、これらの指導者が果たした役割は貴方が考えておられるところとは違う。

歴史の偉大な時期を作り出したり発明するのは人間ではない。それどころか、彼らは運命の使者であり、その道具だ。」

カリスマ神話の仮面を剥ぎ取るオットーの言い方にヒトラーは怒った。

ヒトラー 「君は私が国民社会主義の創造者たることを否定するのか?」

オットー 「そうせざるを得ません。国民社会主義は、我々が生きている時代から生まれた思想だ。

それは、何百万という人々の心の中に存在しているものであり、貴方の中にも化身となっているものだ。かくも多くの人々の中にそれが生まれたという同時性は、その歴史的必然を証明するものであり、また、資本主義の時代が終わったということを証明するものです。」

そして、オットーは単刀直入に最後の駄目押しをした。

オットー 「明日、貴方が天下をお取りになれば、クルップをそのままにしておくおつもりか?

ヒトラーは長演説を振ってオットーの目論む国有化や社会化がディレッタンティズムであることを指摘しながら、

ヒトラー 「これをそのままにしておかなければならないのはいうまでもない。君は私が祖国の偉大な産業を破滅させることを望むほど気が狂っているとでも思っているのか?」

オットー 「もしあなたが資本主義体制の温存を望まれるなら、ヒトラーさん、あなたは社会主義を口にする資格はない。何故なら我々の支持者は社会主義者であるし、あなたの綱領も私企業の社会化を要求しているからです。」

ヒトラー 「社会主義というこの言葉は厄介だ。私は企業を片っ端から社会化すべしというようなことを言った覚えはない。そうではなくて、私が主張したのは国民の利益に有害な企業を社会化してもかまわないということだ。それほど犯罪的なものでない限り我々の経済生活における不可欠の要素を破壊するのは、罪悪であろう。イタリアのファシズムをとって考えてみたまえ。我々の国家も、ファシストの国家と同じく、いざこざが起きた場合には調停の権利を留保しつつ雇用者と労働者の利益の双方を守るだろう。」

オットー 「しかし、ファシズムの下では労資の問題は未解決のままである。この問題は取り組まれさえしなかった。ただ単に一時的に揉み消されたのに過ぎない。あなた自身が無傷のままにしておこうと目論んでおられる通りに、資本主義は無傷のままに終わっている。」

ヒトラー 「シュトラッサー君、ただひとつの経済体制しかない。それは、監督者と執行部の側の責任と権威である。」

オットー 「仰る通りです。ヒトラーさん。国家が資本主義であれ社会主義であれ、行政構造は同じでしょう。しかし、労働意欲はそれがその下で生活している体制に左右されます。数年前、凡人と大差ない一握りの人間が25万人のルール労働者を路頭に投げ出すというようなことが起こり得たとき、そして、この行為が合法的で我々の経済体制の道徳性に合致していたとき、このような体制こそ犯罪的なのであって、人間が犯罪的なのではない。」

ヒトラー 「しかし、そんなことは労働者を使っている企業の利潤分配を労働者に認める理由にはならぬし、特に彼らに相談役の権利を与える理由にならぬ。強力な国家ならば、生産が国民の利益において行われるものだということを理解するであろうし、これらの利益が無視されるような場合には、歩を進めて関係企業を押さえその運営を肩代わりすることも可能だ。利潤分配と労働者の相談役の権利は、マルキシズムの原理だ。思うに、私企業に対して影響力を行使する権利は、優秀な社会層によって指導された国家のみに委ねられなければならぬ。」

こうして、二人の話し合いは1月の会談と同様またもやもの別れに終わった。

「敵を非難するが友人を一人も知らぬ男」、「愛することを知らぬ憎悪する誇大妄想狂」、「バランスの欠けた男[19]」 これが長年にわたる激しい論争の末にオットーが抱いたヒトラー像の結論だった。








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