メラーとシュペングラー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 05:25 UTC 版)
「オットー・シュトラッサー」の記事における「メラーとシュペングラー」の解説
彼の思想形成や思想を明確化する上で大きな契機となったのはジノヴィエフ演説だけではなく、「ドイツ的ソーシャリズム(Deutscher Sozialismus)」を説き、オットーが「ドイツ革命のルソー」と崇めるアルトゥール・メラー・ファン・デン・ブルックや、ソーシャリズムとプロイセン主義を結びつけようとしたシュペングラーも彼に大きな影響を与えた思想家だった。当時、彼はメラーがハインリヒ・フォン・グライヒェン(de)らの左翼インテリ達の「十一月クラブ」に対抗してヴェルサイユ条約の屈辱を心に銘記する為に条約調印の月にちなんで命名し結成した「六月クラブ(de)」に出入りしており、ジノヴィエフ演説の模様もその機関誌「良心」に掲載している。 「若い民族の権利」やドイツ再生の道を説くメラーと「西洋の没落」の著者シュペングラーとの「六月クラブ」で行われた白熱した議論のやりとりは、オットーにとって忘れられぬ日の思い出となる。 彼が尊敬するメラーは、かねがねヒトラーに軽蔑と嫌悪感を抱き、「六月クラブ」でヒトラーが講演したときにも彼を招待することに反対するほどであったが、オットーはこのような反ヒトラー感情をメラーと共有する。ヒトラーが彼にメラーの『第三帝国(正確には「第三の国」: Das Dritte Reich)』からその名を盗用し、我田引水の解釈を加えた「第三帝国」は、メラーやオットーの考えるシャルルマーニュの神聖ローマ帝国をしのばせる連邦的 = キリスト教的ヨーロッパ共同体の理念とは全く異質のものであった。
※この「メラーとシュペングラー」の解説は、「オットー・シュトラッサー」の解説の一部です。
「メラーとシュペングラー」を含む「オットー・シュトラッサー」の記事については、「オットー・シュトラッサー」の概要を参照ください。
- メラーとシュペングラーのページへのリンク