アルメニア人虐殺 迫害の背景と経過

アルメニア人虐殺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/24 03:59 UTC 版)

迫害の背景と経過

オスマン帝国におけるアルメニア人問題の発生

オスマン帝国におけるアルメニア人共同体は、大きく分けて、東部の農村社会と、イスタンブールなど都市部の交易離散共同体との二つから成り立っていた。特に後者は貿易や金融業で成功して富裕な商人層を形成しており、また建築家造幣官などとして宮廷、中央官庁に仕える者も多く、中央政府と共存共栄する共同体であった。オスマン帝国東部にはアルメニア人の他にクルド人なども居住しており、シェイフ・ウベイドゥッラー・ネフリー、ベデゥルハーン・ベグ、イェズダン・シェイルなどのクルド人の反乱が起きていたが、アルメニア人による反乱は起きていなかった。こうした背景から、アルメニア人共同体は「忠実なるミッレト」 (共同体、Millet-i Sadaka)と呼ばれていた。

しかし、19世紀に入るとアルメニア人の中からカトリックへの改宗などを通じて西ヨーロッパ諸国の庇護を受け、特権を享受する者が現れ、オスマン帝国の主流であるムスリム(イスラム教徒)住民との間に軋轢が生じるようになった。また富裕層の間から西ヨーロッパとの交流を通じて民族主義に目覚める者が現れ始めた。一方、ロシア帝国によるコーカサス戦争チェルケス人虐殺などの結果、ムスリムのアナトリアへの集団移住が行われ、オスマン帝国が受け入れていた[15]。コーカサスからのムスリム移民のほか、バルカン戦争などによるバルカン半島からのムスリム移民のなかには、キリスト教徒に対して「復讐心」を抱く者が少なくなく、第一次世界大戦時に非正規部隊に登用され、アルメニア人虐殺においても主要な役割を演じることになった。

1877年の露土戦争でロシア帝国は南カフカスとアルメニア人居住地帯の北東部を占領し、アルメニア系のイワン・ラザレフ英語版(ラザリャン)中将にムスリムとアルメニア人の離間のための任務に当たらせた。(アルメニア人問題英語版)。アルメニア人人口を抱え込んだロシアは、オスマン帝国領内のアルメニア人を支援するようになり、1878年サン・ステファノ条約エルズルム州英語版ヴァン州英語版マームレテュル・アズィーズ州英語版ディヤール・ベキル州英語版スィヴァス州英語版ビトリス州英語版からなるオスマン帝国東部の「六州トルコ語版」におけるアルメニア人の権利向上を目指す改革の実施を約束させようとした。これを契機にオスマン帝国領内でアルメニア民族運動英語版が盛り上がり、帝国外ではアルメニア人民族主義者がフンチャク党英語版ダシュナク党など、アルメニアの独立を目標とする政党が結成された。やがて、彼らの中から帝国内に秘密支部(アルメナカン党英語版)を設け、オスマン官吏を狙った爆弾攻撃を行う抵抗運動すら現れ始めた。一方、先の露土戦争のとき、ロシアの占領地からオスマン帝国に逃れてきたムスリムの難民たちから、キリスト教徒であるアルメニア人がロシア帝国軍に協力してムスリムを追い立てたのだとする風評がムスリムの間で広まり、オスマン帝国下のムスリム、すなわち都市部でアルメニア人と接するトルコ人や東部でアルメニア人と混住するクルド人の間で、アルメニア人を国内にありながら外国と通謀して「テロ」を行う危険分子と見なす敵愾心が高まっていった。

「ハミディイェ虐殺」

『一級屠殺業者アブデュル・ハミド』(フランスの政治諷刺画)

1894年、アナトリア東部のビトリス県でムスリムとアルメニア人の大規模な衝突が起き、オスマン政府は軍隊のほかハミディイェのような非正規部隊を動員して衝突を鎮圧し、2万人とも言われる多くの犠牲者を出した(ハミディイェ虐殺英語版)。

ただし、フランスの外交書簡によれば、ハミディイェによって殺されたのはアルメニア人だけではなく、ディヤルバクル(ディヤルバクルの虐殺英語版), ハサンケイフ英語版, スィヴァス[16]などのアナトリアに住むアッシリア人も多かったと記録されている[17][18]。また、9月には、イスタンブールに住むユダヤ人コミュニティが暴動の期間中に多くのアルメニア人を自宅に匿っていた為、シナゴーグがムスリムによる襲撃を受けている[19]。アルメニア人政党はこれを機に国際世論に訴えたので、ヨーロッパ諸国はオスマン帝国の対応を批判し、翌1895年1月、列強は共同でアナトリア東部の行政改革案を提示して、その履行をオスマン帝国に要求した。この出来事は同年、オスマン帝国政府が履行を受諾しながら改革を一向に実施しないことに抗議するアルメニア人の大規模なデモをイスタンブールで巻き起こすが、これをデモというよりはむしろ外圧を笠に着た横暴と感じて激昂したムスリム民衆が首都のアルメニア人を襲撃する事件が起こった。さらに翌1896年にはアルメニア人の革命組織がイスタンブールのオスマン銀行を襲撃・占拠した事件(オスマン銀行占拠事件英語版)が起こり、ムスリムとアルメニア人の衝突が再燃した。

1894年に起こったこの衝突・迫害は1896年の衝突を最後に一応の沈静化をみるが、一連の衝突で犠牲になったアルメニア人は数万人にのぼった。この事件をきっかけに富裕層を中心にオスマン帝国を見限ったアルメニア人の欧米への移住が相次ぎ、オスマン帝国都市部のアルメニア人人口は急速に減少に向かった。

一連の衝突・迫害に関して諸外国はオスマン帝国を非難したが、オスマン帝国の分割あるいは保全に対する列強それぞれの思惑の相違から改革要求以上の介入は行われず、ムスリムとアルメニア人の対立構造は虐殺行為の沈静化後もそのまま手付かずに残されることとなった。

ユルデュズ暗殺未遂事件と青年トルコ人革命

1905年7月21日アルメニア革命連盟キュステンディル近郊の村で製造された爆弾によるスルタンアブデュルハミト2世暗殺を試みたが、護衛26人は死亡したもののスルタンは軽傷で済み失敗に終わった。スルタンへの敵意は統一と進歩委員会(青年トルコ党)にとっても同様で、1908年青年トルコ人革命でついにアブデュルハミト2世の専制がエンヴェル・パシャらによって打破され、憲政が復活した。

アダナの虐殺

それまでズィンミーの身分に耐えてきたアルメニア人キリスト教徒の間でも青年トルコ人革命によって圧政から解放される期待が高まっていたが、1909年4月13日に起こったアダナの虐殺で、アルメニア人キリスト教徒15,000-30,000人がムスリム住民に虐殺された[20][21][22][23][24]。この時、アレクサンドレッタのアメリカ大使館[25][要出典]は数千人のアルメニア人で溢れ返り、メルスィンに寄港中だったフランス海軍軍艦3隻にはアルメニア人難民が殺到した。オスマン軍も暴力を沈静化させるために活動した。イギリス海軍巡洋艦ダイアナが事態を沈静化させる為にアレクサンドレッタ(現・イスケンデルン)に寄港したが、暴動はなかなか治まらなかった。

第一次世界大戦時の「アルメニア人虐殺」

アルメニア人虐殺
虐殺されたアルメニア人
場所 オスマン帝国
日付 1915年 - 1917年
標的 アルメニア人
攻撃手段 ジェノサイド
死の行進
強制改宗
死亡者 60万 - 100万人
犯人 オスマン帝国
統一と進歩委員会
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1913年になるとタラート・パシャエンヴェル・パシャジェマル・パシャらがクーデターを起こし、統一派のタラートが自ら政権の座についた。政権奪取に至る帝国内外の政治的な経緯から、次第にトルコ民族主義へと傾斜しており、アルメニア人問題は再燃に向かっていた。1914年、東部アナトリアの諸州にアルメニア人問題に関する国際監視団が派遣されることが決定したが、同年に第一次世界大戦が起こると凍結された。この状況下でオスマン帝国が第一次世界大戦で同盟国側につくことを決すると、連合国側で参戦したロシア帝国のニコライ・ユデーニチが率いるカフカース軍が東部アナトリアに侵攻し、1914年12月のサルカムシュの戦い英語版エンヴェル・パシャが率いるオスマン軍を撃破した。このとき、アルメニア系オスマン帝国臣民の中からも、ロシア軍へと参加したり、オスマン帝国に対するゲリラ戦活動に入ったりする者が数千人単位で現れ、アルメニア人ゲリラによってムスリムの村落が襲撃され、ムスリムが殺害される事件も起こった。これらの行動は、1877年の露土戦争以来オスマン帝国の政府内外に浸透していたアルメニア人への敵意を確実なものとする結果を呼んだ。

ガリポリ戦線がイギリスの激しい攻勢にさらされる中で、1915年にはヴァン湖周辺でユデーニチ率いるロシア軍と一進一退の膠着状態に陥っており、オスマン軍にとってカフカス戦線英語版までもが劣勢に陥るという苦境だけは避けねばならなかった。1915年春頃に、統一派の領袖の一人で、この頃に汎トルコ主義への傾斜を強めていた陸軍大臣エンヴェル・パシャが、アルメニア人の「反乱」を根絶するためにアルメニア人を放逐する必要を主張していたことが明らかにされている[26][要出典]1915年4月19日、ヴァン湖地区で行われたヴァン攻囲戦では、エンヴェル・パシャの叔父ハリル・ベイ率いる第5遠征隊(5 nci Kuvve-i Seferiye)がアルメニア人防衛線を突破することに成功し[27]、7月にはマラズギルト英語版アフラート英語版線まで押し戻し、8月にはヴァン湖周辺を制圧することになった。

1915年4月、オスマン帝国軍の武装兵により追い立てられるアルメニア人

それと並行して、1915年4月から5月頃、戦闘地域での反国家・利敵行為を予防するとの目的で、ロシアとの戦闘地域であるアナトリア東部のアルメニア人をシリアの砂漠地帯の町デリゾール強制収容所へと強制移住させる死の行進政策が開始された。その指令が何時いかなるようになされたか、あるいは本当になされたのかどうかについては議論があるが、指令が事実としてあったと見なす人々は、タラート・パシャによってアルメニア人虐殺が指令されたとしている[28][要出典]。そして同年4月24日は、イスタンブールでアルメニア系の著名人たちが逮捕・追放され(アルメニア著名人の追放英語版 、「赤い日曜日」とも)、後に殺害された者も少なくなかった。アルメニアおよび各国のアルメニア人共同体では、この事件が一連の虐殺の契機と見なされており、この日がジェノサイド追悼記念日とされている由縁である。

アルメニア人たちは徒歩で乾燥した山地を越えてシリアの砂漠へと向かう強制移住に駆り立てられた。ユーフラテス川沿いのシリア砂漠の町デリゾールへと向かう厳しい移動の中で少なからぬアルメニア人が命を落としたことはおそらく間違いない事実であり、トルコ共和国もそれは否定していない。また無防備なところを現地のトルコ人やクルド人部族の民兵による「報復」にさらされるなどしたこともあったと見られる。

そしてアルメニア人の組織的虐殺を事実として肯定する立場によれば、さらに強制移住のため家々から駆り立てられたアルメニア人の青年男子は村内の一箇所に集められ、まとめて殺害されたという。

一方、虐殺を否定するトルコ側の主張は、アルメニア人が多く犠牲になったのはあくまで戦時下の最前線の混乱における不幸な結果だと見なしている。否定する立場では、殺害されたのは戦闘員やロシアと通じたスパイのみであるとされており、4月24日の最初の犠牲者もそれに含まれるという。

混乱を生き延びたアルメニア人たちの多くは、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国に移住して行った。ムーサダーでは、6村が丸ごとレバノンに逃れ、それぞれ居住区を与えられて保護されたケースもある。1933年に、フランツ・ヴェルフェルは、これらのエピソードをもとに小説『ムサ・ダの40日間英語版』(『モーセ山の40日』とも)を執筆した。

「アルメニア人虐殺」に対する見解は、この問題が現在もなお深刻な政治的問題をも含むために、肯定派と否定派の間に大きな隔たりがある。このため、虐殺を巡る歴史的な事実の究明はほとんど進んでいないと言ってよい。[要出典]

この一連の迫害において死亡したアルメニア人の人数は、最も少なく見積もるトルコ人の推計で20万人から、最も多く見積もるアルメニア人の算出で200万人とされる。ただし、19世紀末にオスマン帝国領のアナトリア東部に住むアルメニア人人口はおよそ150万人という統計があり、その20年後に第一次世界大戦が始まった時の人口も、自然増と流出による減少によりほぼ同数であろうと考えられる。それらのうち、既にロシア領へと逃亡していた者や、カトリック、プロテスタント、イスラム教へと改宗して強制移住の対象から外された者を除く何割かが強制移住に駆り立てられたことになる。その人数はおよそ80万人から100万人ほどとする推定もあり、欧米や日本の研究者の幾人かは、60万人から80万人という犠牲者数の推定が妥当ではないかという見解を述べている。[要出典]

エンヴェルに近い統一派の諜報組織「テシュキラート・マフスーサトルコ語版」(特別組織)の下、クルド部族民、囚人、カフカスおよびバルカン半島からの避難民から編成された非正規戦闘部隊[29] による一連のアルメニア人強制移住への関与が指摘されている。また、サルカムシュの戦いで瓦解したこれら部隊の元構成員が逃亡して、アルメニアおよびムスリムの村々を襲撃したことが報告されている[30]。強制移住にともなう諸々の迫害がオスマン帝国の統一派政権によって組織的に行われていた説が主張されている。しかし一方では「政府当局者がアルメニア人虐殺を命令したとする確かで信頼できる証拠は存在しない」ということを根拠に、虐殺指令の事実を否定する主張もある。さらに「証拠とされる文書の中には、第一次大戦中の敵国によるプロパガンダや偽造文書の類が含まれている」と主張する説もある。

三月事件、九月事件、シュシャ・ポグロム

1918年3月、アルメニア革命連盟が、アルメニア人虐殺への報復として、バクーで3,000-12,000人の主にシーア派ムスリム(タタール人)を虐殺した[31][32][33][34]。この時、アルメニア革命連盟ボルシェビキメンシェビキ等と行動をともにした。ムスリムはバクーから追われたり、地下へ潜ったりした。

ネメシス作戦

アルメニア革命連盟によって、1920年から1922年にかけて、旧オスマン帝国から逃亡していた同国の指導者らに対して秘密暗殺作戦が行われた。1921年3月15日に虐殺の首謀者と見られていたタラート・パシャがベルリン殺害されるなど、世界各地で暗殺が実行された。


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