P-MODEL結成まで
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幼少期は機械いじりが好きであったが、知り合いの牛乳配達員がジミ・ヘンドリックスやクリームのレコードなどを実家への配達時に教えてくれる機会があり、10歳頃から音楽へと傾倒していった。小学生の頃にテレビや兄の持っていた雑誌に写っていたエレキギターに惹かれ、赤色のエレキギターを購入する。しかし、メディアによく出演していたザ・ベンチャーズよりもTHE SPOTNICKS(スウェーデン語版)やThe Atlantics(英語版)に影響を受けたと語っている。中学生になると「おまえと似たやつがいる」と同級生に紹介され、別の中学校の年上のドラマーと初めてバンドを結成する。 その後、一旦音楽を離れモトクロスに転向。しかし、高校生のときにトラックとの事故を起こしたことがきっかけでギター演奏を再開する。この頃に安部文泰と出会い、安部と共に本格的な音楽活動を開始する。メンバー募集の貼り紙を見た田中靖美・田井中貞利が応じ、1973年にHR/HMバンド『マンドレイク』を結成した。結成当初、平沢はギタリストとして参加していたが、ボーカリスト・作詞担当だった安部が失踪してしまい、急遽ボーカルおよび作詞を始めた。HR/HMからプログレッシブ・ロックへと転向していたマンドレイクだったが、1970年代後半になると平沢はパンクブームによるパンク・ロックバンドの台頭を知り、ニューウェーブバンドへの模索を始める。 マンドレイクのメンバーであった田中靖美と共に、電子音楽を演奏するバンド『バッハ・リヴォリューション』に参加し、同バンド内で神尾明朗と出会う。神尾とは後にP-MODELで「FISH SONG」を共作し、P-MODELや平沢ソロのプロデューサーを務める事となる。1978年には神尾の勧めで週刊プレイボーイ誌上で行われたシンセサイザーの多重録音コンテストに参加。作品「いりよう蜂の誘惑」が入賞し、入賞作品を集めたコンピレーション・アルバム『驚異の頭脳集団』に収められメジャーリリースされた。 同時期に田中と共にモーグ・シンセサイザーを用いてバロック音楽などをアレンジしたものを製作した。ウェンディ・カルロス「スウィッチト・オン・バッハ」やクラフトワークを参考に、KORG 800DVによるノイズが混ざった音色 を制作し、「アクリル・ポップ(ミュージカル・ホッチキス)」と名付けた。 マンドレイクは最終的にはレコード会社数社に声を掛けられるほど成長したが、1978年年末に解散する。
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