NWA - WWF
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 14:52 UTC 版)
「テリー・ファンク」の記事における「NWA - WWF」の解説
プロレスラーのドリー・ファンク・シニアの次男として生まれ、兄のドリー・ファンク・ジュニアと共にレスリングの英才教育を受けながら育つ。ウエスト・テキサス州立大学でアメリカンフットボール選手として活動後、1965年にプロレスラーとしてデビュー。父がプロモートしていたテキサス州アマリロ地区(NWAウエスタン・ステーツ・スポーツ)にてキャリアを積んだ。 1970年6月、日本プロレスに初来日。1971年12月7日、ドリーとのザ・ファンクスでジャイアント馬場&アントニオ猪木のBI砲を破りインターナショナル・タッグ王座を獲得。1972年10月には全日本プロレスの旗揚げシリーズに参加、以降、全日本プロレスの看板外国人選手となって活躍した。 アメリカでは、1973年2月10日にジョニー・バレンタインからNWAミズーリ・ヘビー級王座を奪取。1975年12月10日にはジャック・ブリスコを破ってNWA世界ヘビー級王座を獲得、兄ドリーと並んで史上初の兄弟世界王者となった。以降、各地で防衛戦を続けたが、1977年2月6日、兄と同じくハーリー・レイスに敗れ王座陥落。 1977年12月に全日本プロレスで開催された世界オープンタッグ選手権にはドリーとのザ・ファンクスで出場し、アブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークの史上最凶悪コンビを退けて優勝。以降、1979年と1982年の世界最強タッグ決定リーグ戦でも優勝を果たした。 日本において絶大なベビーフェイス人気を博していた同時期、本国アメリカではレッドネックのワイルドさを強調したラフファイト主体のヒールとして活躍。ロサンゼルスではチャボ・ゲレロ、フロリダではダスティ・ローデス、テネシーではジェリー・ローラー、サンアントニオではワフー・マクダニエルなど、各地のヒーローと流血の抗争を繰り広げ、業界誌の不人気部門(すなわち悪党人気部門)では常に上位にランキングされていた。 1983年8月31日に全日本プロレスのリングで現役を引退したが、翌1984年8月に復帰。1985年6月にWWFと契約し、ジミー・ハートをマネージャーにカウボーイ・ギミックのヒールとしてハルク・ホーガンやジャンクヤード・ドッグと抗争を展開。1986年1月にはドリーもホス・ファンクのリングネームでWWF入りし、同年4月7日のレッスルマニア2(ロサンゼルス大会)にはザ・ファンクスとして出場している。 その後、膝を負傷してWWFを離脱。再び引退宣言して俳優活動に入り、『オーバー・ザ・トップ』など数本の映画やドラマに出演。
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