アメリカンフットボール選手として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 06:21 UTC 版)
「ディオン・サンダース」の記事における「アメリカンフットボール選手として」の解説
先述のように1989年のドラフトでアトランタ・ファルコンズから一巡目(全米5位)で指名され入団。コーナーバック(以下CB)、キックオフリターナー(KR)、パントリターナー(PR)、時折ワイドレシーバー(WR)として活躍した。1992年(2月)に初のプロボウル出場を果たす。1992年にはキックオフ・リターンで1,067ヤード、平均26.7ヤード、2リターンタッチダウンを記録(いずれもリーグ1位)し、1993年にはキャリア最高の7インターセプトを記録。1993年、1994年にもプロボウルに出場している。ただし、本拠地ジョージア・ドームに不満を漏らすなど、野球だけでなくアメフトでも問題児ともなった。 ただし、実力の方は高く相手QBがサンダースの居るサイドにはパスを投げにくくなり、インターセプトの数はそれほど伸びなくなったが、1992年のプロボウルでは、ジム・ケリーからスティーブ・タスカーにサンダースと反対サイドに投げられたパスを見事にインターセプトした。 背番号「21」は、アメフトにおいてはディオン・サンダースの背番号というイメージが強かった(野球でも一時背番号21をつけていた)。1994年にはサンフランシスコ・49ersに移籍し、前年まで在籍していたファルコンズ戦で、ジョージア・ドームでインターセプト・タッチダウンを記録するなど活躍し、チームを第29回スーパーボウル制覇に導く活躍をあげ、自身も最優秀守備選手に選出された。しかし、WRジェリー・ライスとの確執もあり、1年限りで移籍することとなる。なお、この年にはプロボウルの出場を辞退している。 数チームによる争奪戦の末、1995年9月9日に、ダラス・カウボーイズと7年総額3500万ドル、プラス契約金約1300万ドルで契約。この時点でNFLの守備選手として最高給選手となった。この時点でアメフト専念を発表(のち撤回)。後年、オークランド・レイダースの方がサラリーの提示額は高かったが、親友であるWRマイケル・アービンが居ること、スーパーボウル制覇を狙えるチームという理由でカウボーイズを選んだと語った。この1995年シーズンにも自身2度目のスーパーボウル(開催は1996年)制覇を成し遂げた。スーパーボウルではWRとしても47ヤードのレシーブを記録し、(現時点で)「スーパーボウルでパスレシーブとパスインターセプトの両方を記録した史上唯一の選手」となっている。カウボーイズには結局5シーズン在籍し、全てのシーズンでプロボウル出場を果たしたが、先述の1996年を最後にスーパーボウル出場はならなかった。自身も悩み、1997年には未遂に終わったが自殺を試みている。 カウボーイズとの契約を2年残して2000年にワシントン・レッドスキンズに移籍し、1年限りで引退し、野球に専念した(こちらは2001年限りで引退)。その後、2004年にボルチモア・レイブンズと年俸150万ドルで契約し現役復帰。本来の背番号「21」ではなく、当時の年齢「37」を背番号に選ぶ。10月24日のバッファロー・ビルズ戦では自身9度目のインターセプト・タッチダウンを記録したほか、5インターセプトを記録するが、結局1年限りで再度の引退となった。 大学とNFLの両方でブレット・ファーヴのパスをインターセプトした唯一の選手でもある。 1990年代のオール・ディケイド・チームにも選出されている。そして、先述の通り2011年にプロフットボール殿堂入りが決まり、同時に選出されたマーシャル・フォークらと喜びを分かち合った。
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