Kobe Paper Mill
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「神戸製紙所」の記事における「Kobe Paper Mill」の解説
Kobe Paper Millは1878年(明治11年)に襤褸から木綿パルプの製造に成功したが、アメリカが輸入パルプの関税を上げたため木綿パルプの輸出は不採算のものとなった。そこでKobe Paper Millは作った木綿パルプを自社で紙にするべく岩崎弥之助から13万円を借り受けた。岩崎弥之助からの借り入れを受けた後すぐ1878年(明治11年)6月にジョン・ウォルシュは渡米して網幅72インチの丸網抄紙機とこれを運転する蒸気機関を注文する。ちなみに同時期の同業他社では有恒社、蓬莱社は60インチの長網抄紙機、パピール・ファブリックが1.5メートルの長網抄紙機、抄紙会社(王子製紙)が78インチの長網抄紙機、三田製紙所が57インチ丸網抄紙機を採用しているので同業他社に決して見劣りするものではなかった。。機械が届いて1879年4月には生産を始めている。生産開始の翌年1880年(明治13年)には年間約70万ポンドの紙を抄きこれは先行する同業のパピールファブリックの1880年生産量38万ポンドあまりをすでに上回っている。その後も生産量は順調に増えて1890年(明治23年)には320万ポンド、1897年(明治30年)には700万ポンドの生産量に達している。動力は蒸気機関を使用し、水は当初は井戸水を汲んで使っていたが、生産量が増えてくると井戸水では足らず布引きの滝の水も使用するようになった。 材料は当初、襤褸から自製した襤褸パルプを使用したが、生産量が増すにつれ自製襤褸パルプだけでは足りなくなり外部から藁、木材パルプも購入している。Kobe Paper Millは上質紙を中心としたので藁パルプの品質には満足していなかったものの生産設備の不足でやむをえず藁パルプの使用量をふやしたのであろうと考えられている。 生産開始から10年の1888年(明治21年)には80インチの長網抄紙機の導入を決め1889年(明治22年)には長網抄紙機の運転を開始、長網抄紙機の運転が始まると従来の丸網抄紙機をいったん休止させて改造をおこなうなど設備を拡大させている。 従業員数については生産開始3年目の1881年(明治14年)には男性63名女性10名を雇っており、この数字には事務職員や技師も入っているので、工員数が60名だった王子製紙と同規模であったと考えられている。工員数はその後増え1897年(明治30年)には193名(女性66名)になっている。工場は24時間稼働し年間操業日数は324日程度であった。 このように生産量は順調に増えていったものの、それは同業他社においても同じで、さらに1890年(明治23年)頃には富士製紙、四日市製紙、千壽製紙なども開業した。国内需要は増えていったものの各社の過剰な生産拡大とまた、安い輸入紙との競争もあり、紙の価格は低迷し、王子製紙以外の製紙各社の業績は悪化していった。Kobe Paper Millも生産調整などでこれに対処しているが1891,1892年には赤字を出すなどしている。ただし日清戦争前後には市況も回復し1893年、1894年などは利益も出している。 このころには日本の製紙業は襤褸や藁を材料とする時代から木材パルプを主体とするように変化しているが、上質紙を主体としていたKobe Paper Millは木材パルプへの転換は遅れた。そのため90年初頭の不況時に生産調整して低下したシェアを回復できなかった。 ウォルシュ兄弟の経営時代には正式な社名はKobe Paper Mill Co.だったが通常は「神戸製紙所」と呼ばれていた。
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