Japan paper Making Co.
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/06 05:55 UTC 版)
「神戸製紙所」の記事における「Japan paper Making Co.」の解説
江戸時代、鎖国していた日本も明治維新後には外国のものを多く取り入れたが、そのなかで洋紙の需要が生まれた(和紙は筆書きには優良だが活字印刷には向かない)。明治初期の日本では洋紙を輸入するとともに、国内生産もはじまり1872年設立の有恒社などが企画されていく。 ウォルシュ兄弟は1871年から1872年ころから日本では豊富に手に入る木綿襤褸(ボロ、木綿の古布)を輸出していた。襤褸は木材パルプの技術が未熟な時代には紙の材料として優れたものだったのである。したがって日本の最初期の製紙会社はいずれも襤褸を入手しやすい大都市に工場を構えたのである。しかし、襤褸のままではかさばり、また染料抜きの為に含ませた石灰が水に反応して自然発火することもあった。そこで日本国内で襤褸をパルプに加工してから輸出するべく1875年Japan paper Making Co.を神戸に設立した。神戸を選んだのは当時、外国人は横浜、神戸など外国人居留地以外での事業が出来なかったからである。Japan paper Making Co.は資本の半額はウォルシュ兄弟が出すものの、在日や在英の英米人も残りの半額を出資していた。 工場は神戸外国人居留地に隣接する2500坪の田畑を借地し、建物はウォルシュ商会横浜店や鹿島方(鹿島建設)に発注し、襤褸蒸煮釜や蒸気機関など機械類は英米から輸入した。技師もイギリスから招いた。しかし工場が完成する前に予算をオーバーしてしまった。そのため在英の出資者と在日の出資者の間で紛争がおこり在英出資者が引き上げてしまう事態になった。1877年、ウォルシュ兄弟は新しい出資者を日本人を含めて探すが見つからず、結局は事業をウォルシュ兄弟の個人事業とすることにし、企業名もKobe Paper Millに改称した。
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