合資会社神戸製紙所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/06 05:55 UTC 版)
前述のように日清戦争前後には経営状態を回復していたがシェアは落としたままの状況である1897年(明治30年)8月、ウォルシュ兄弟のジョン・ウォルシュが急死してしまう。70歳と高齢だったトーマス・ウォルシュはこれを機にKobe Paper Millを三菱岩崎家に売ってアメリカに帰ることにした。三菱は事業を原則として三菱合資会社に結集したが、Kobe Paper Millの買収は三菱としてではなく、岩崎家が買い三菱合資とは別組織とすることにした。その理由は明確ではないがそれまで外国人の経営であったKobe Paper Millは三菱傘下の企業とは異なる面が多かったため別にした方がよいという判断もあり、またこの1997年時点では三菱合資は一時的に業績を悪化させていたため、資金に余裕のある岩崎本家が買ったのであろうと考えられている。 岩崎久弥とトーマス・ウォルシュはKobe Paper Millの価値を45万円と査定し、その半額の22万5千円でウォルシュ兄弟の株式持ち分を買収した。1898年(明治31年)からは岩崎久弥がKobe Paper Millの事業主となることになった。 岩崎久弥のものとなったKobe Paper Millは社名も合資会社神戸製紙所と改めた。三菱の名はこの時点ではついていないが実質的には三菱製紙であり、現代の三菱製紙でも1898年を創立年としている。 かくして神戸製紙所は通称から正式社名になったものの、1900年(明治33年)には工場用地の借地期限が切れた。工場周辺の市街化が進んでいたため借地契約延長も大幅な借地料引き上げが見込まれた。また工場用水も逼迫した。そのため工場を移転することになり1901年(明治34年)兵庫県高砂に移転した。1904年(明治37年)社名も合資会社三菱製紙になり、ウォルシュ兄弟が開いた神戸製紙所の歴史は終わりとなる。
※この「合資会社神戸製紙所」の解説は、「神戸製紙所」の解説の一部です。
「合資会社神戸製紙所」を含む「神戸製紙所」の記事については、「神戸製紙所」の概要を参照ください。
- 合資会社神戸製紙所のページへのリンク