合資会社大阪金属工業所設立
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「山田晁」の記事における「合資会社大阪金属工業所設立」の解説
1924年(大正13年)初め、2回目の注文があったのを機に独立を決意し、同年10月退社、10月25日、「合資会社大阪金属工業所」を設立した。山田晁39歳であった。事業目的は飛行機部品、主として放熱管および同用管の製作販売、一般金属の圧搾および搾伸作業などで、本店は従来通りの難波新川の工場、資本金1万5000円で、山田晁1万円、松田隆亮と永田浅五郎各2000円、島野龍生1000円であった。 主力商品の飛行機用ラジエーターチューブ製造には従来の抽伸法から、砲兵工廠での黄銅薬莢製造法の応用である搾伸法に変更して品質向上を図った。工場3回目の注文は川崎造船所飛行機部から「サルムソン」式飛行機国産化のためのラジエーターチューブであった。また1925年(大正14年)には松井常三郎の奉天兵工廠からは、不発の多かった瞬発信管の発明家三浦松五郎のアイデア提供のもとでの改良型の大量発注もあった。また、東洋紡績からは、糸を巻く木管に取り付けるリングを搾伸法を用いて製造した使い勝手の良いソリッドタイプにしたい、との相談を受け、これを量産することとなった。 これら3品目が創業初期を支える主力商品であった。このほか、ラジエーターチューブ製造技術を応用した都市ガス瞬間湯沸器も販売したが、販売力が弱くあまり売れなかった。 1928年(昭和3年)5月には、難波工場では手狭となり、大阪市西成区中開町にあった染色工場を買収し、今宮工場として8月に操業を開始した。その頃、陸軍造兵廠大阪工廠の独占だった兵器生産の民間開放があり、1929年(昭和4年)9月には37mm速射砲の薬莢受注に民間企業として初めて成功した。その後、その他の薬莢や信管、弾丸も受注し、工場が手狭になり、1934年(昭和9年)6月、隣接地に第二工場を建設した。
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