合資会社大阪金属工業所設立とは? わかりやすく解説

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合資会社大阪金属工業所設立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 08:24 UTC 版)

山田晁」の記事における「合資会社大阪金属工業所設立」の解説

1924年大正13年初め2回目注文があったのを機に独立決意し同年10月退社10月25日、「合資会社大阪金属工業所」を設立した山田晁39歳であった事業目的飛行機部品主として放熱管および同用管の製作販売一般金属の圧搾および搾伸作業などで、本店従来通り難波新川工場資本金1万5000円で、山田晁1万円松田隆亮と永田五郎2000円島野龍生1000円であった主力商品飛行機用ラジエーターチューブ製造には従来の抽伸法から、砲兵工廠での黄銅薬莢製造法応用である搾伸法に変更して品質向上を図った工場3回目注文川崎造船所飛行機部から「サルムソン」式飛行機国産化のためのラジエーターチューブであった。また1925年大正14年)には松井三郎奉天兵工廠からは、不発多かった瞬発信管発明家三浦松五郎アイデア提供のもとでの改良型大量発注もあった。また、東洋紡績からは、糸を巻く木管取り付けるリングを搾伸法を用いて製造した使い勝手良いソリッドタイプにしたい、との相談を受け、これを量産することとなった。 これら3品目創業初期支え主力商品であった。このほか、ラジエーターチューブ製造技術応用した都市ガス瞬間湯沸器販売したが、販売力弱くあまり売れなかった。 1928年昭和3年5月には、難波工場では手狭となり、大阪市西成区中開にあった染色工場を買収し今宮工場として8月操業開始したその頃陸軍造兵廠大阪工廠独占だった兵器生産民間開放があり、1929年昭和4年9月には37mm速射砲薬莢受注民間企業として初め成功したその後その他の薬莢信管弾丸受注し工場手狭になり、1934年昭和9年6月隣接地第二工場建設した

※この「合資会社大阪金属工業所設立」の解説は、「山田晁」の解説の一部です。
「合資会社大阪金属工業所設立」を含む「山田晁」の記事については、「山田晁」の概要を参照ください。

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