合資会社時代
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八幡水力電気の主催者は、郡上郡八幡町(現・郡上市)の水野伊兵衛という人物である。水野は郡上経由で名古屋と金沢を結ぶ鉄道敷設計画の起業に奔走していたところ、金沢に出張した折に同地で電灯事業の計画が進行中であるのを聞いて水力豊富な八幡でも水力発電が可能であると思い立った。水野は技術者に依頼して水力発電の適地を調査した結果、岐阜電灯社長岡本太右衛門に紹介された技師大岡正の指導に基づき市街地に近い「乙姫滝」を利用した水力発電所を建設することになった。 1898年(明治31年)8月、八幡水力電気合資会社が設立された。会社設立に際し、岡本から経営全部を引き受けると申し出があったが水野はそれを断り、岐阜方6対八幡方4の割合で出資したという。工事に関してはすべて大岡正が引き受け、乙姫滝に三吉電機工場製ペルトン水車と芝浦製作所製エジソン型直流発電機を備える発電所を完成させた。乙姫滝の上にある湧泉に水槽を造り、ここから木樋によって導水するという仕組みであった。だが設備の完成を受けて試験運転に取り掛かったものの発電所内に取り付けた電灯が明るく輝くことはなかった。大岡は機械不良とみてしばらく試行錯誤を続けたが、ある朝突如宿から消えていたという。会社では原因を水量不足と推測して蒸気機関を買い入れ水車とともに運転させたところ不十分ながら市中配電が可能となった。 こうして八幡水力電気は開業に至った。逓信省の資料によると事業開始は1898年11月22日。岐阜市の岐阜電灯(1894年開業)に続く岐阜県下2番目の電気事業である。また乙姫滝発電所は出力25キロワットと小規模ながら岐阜県内最初の事業用水力発電所になった。ただし水力発電所とはいえ満足に運転できるのは豊水期だけで、渇水期には火力発電に依存することもあった。工事費は火力工事代約5000円が別途かかり1万5000円となったが、水野伊兵衛は設計に失敗した大岡を責めなかったという。電灯数は1901年時点では362灯で、この年は1割の配当を出していたがその後灯数が減少し経営が悪化した。
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