JMP役員の裏切り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 14:35 UTC 版)
「樺太1945年夏 氷雪の門」の記事における「JMP役員の裏切り」の解説
1974年3月31日、JMPの役員の一人が、北海道室蘭市のバス会社の代表取締役社長に就任したが、翌1975年(昭和50年)4月10日に退任、5月には同社から特別背任容疑で札幌地検室蘭支部に告訴され、9月に逮捕、10月に起訴された。容疑の中核は、十六億七千万円にのぼる同社の手形を不正に乱発し、同社に実質五億円の損害を与えたことによる。この大型背任事件については、北海道新聞、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、サンケイ新聞等で報じられ、参議院の運輸委員会でも質疑応答がなされている。同役員に対しては札幌地裁が懲役3年6月の実刑判決を1981年(昭和56年)7月6日に言い渡し、控訴棄却、上告棄却を経て1984年(昭和59年)4月までに確定した。 それらの記事によると、同役員は再建屋を自称しているが実態は整理屋であり、1973年夏頃にバス会社の経営難を聞きつけるや早速接近、衆議院の運輸委員長であった三池の信用を餌にバス会社に社長として乗り込んだが、まともな再建策は講じず、手形乱発により損害を与えて倒産に追い込んでいる(その後、バス会社は再建)。1974年5月には、JMPに対する三池からの融資の返済に、JMPの業務とは無縁のバス会社の七千五百万円の手形を充てようとしたが、この手形は三池から返却されている。バス会社への接近工作が1973年夏から1974年3月にかけて、手形乱発は1974年4月から9月にかけてのことで、同役員はこの大事な時期に、JMPの業務よりもバス会社の乗っ取りに熱中していた。三池、望月、守田ら他の役員は映画製作を志してJMPを興したが、同役員だけは詐欺の舞台装置としてJMPを利用したというのが、この事件についての各紙社会部・経済部の記事の論調であった。 ところが、これらの記事は、映画『氷雪の門』を巡るその後の報道に生かされなかった。映画記者と社会部・経済部記者との情報のギャップによるものと思われるが、そのため村山三男、国弘威雄をはじめ『氷雪の門』一作かぎりの契約スタッフや出演者の大多数は、同役員の一連の怠業と不正を知らないまま過ごした。事情を知っている他の役員は騙されていたことを羞じてか、あるいは同役員の法廷闘争を見守ることを優先してか、スタッフや出演者の大多数に積極的な釈明を行わなかった。
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