GHQによる車載客船建造許可
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 17:44 UTC 版)
「洞爺丸」の記事における「GHQによる車載客船建造許可」の解説
戦時中から建造中であった、車両渡船 第十二青函丸・石狩丸(初代)を含む、いわゆる“続行船”の竣工後をにらみ、日本政府がGHQに出していた大量の新造船建造申請は、1946年(昭和21年)1月、ことごとく却下された。しかし、このような青函航路の貨車航送能力不足は、北海道に駐留するアメリカ軍自身の物資輸送にも支障をきたすところとなり、1946年(昭和21年)7月、当時の国鉄であった運輸省鉄道総局はGHQから、青函航路用に車載客船4隻、車両渡船4隻、計8隻(補助汽船と宇高航路の車載客船も含めると17隻)という、大量の連絡船建造の許可を取り付けることに成功した。 洞爺丸は青函航路の車載客船第1船として、早くも1946年(昭和21年)9月17日、三菱重工神戸造船所で起工されたが、同造船所にとっても本船は戦後初めて起工する商船であった。翌1947年(昭和22年)2月には突然車載客船4隻の建造許可取消命令が出される(運輸省鉄道総局の説得工作で命令は撤回されたが)など、方針の変わりやすいGHQの方針に翻弄されながらも、戦争で破壊された施設で、充分な資材もない厳しい造船事情の中、極めて逼迫した青函航路の早急な輸送力回復のためと、GHQによる新たな阻害が起きないうちの竣工を目指し、建造は急ピッチで進められた。 洞爺丸型車載客船4隻の建造は、かつて翔鳳丸型を建造した浦賀船渠も候補にあがったが、建造体制が整わず辞退し、結局3隻を三菱重工神戸造船所が、1隻を浦賀船渠が建造することとなった。なお、浦賀船渠では同時期、このほかに、戦時中から連続建造してきたW型戦時標準船の平時仕様の車両渡船2隻の建造も行い、三菱重工横浜造船所ではH型戦時標準船の平時仕様の車両渡船2隻の建造が行われた。 なお、設計段階では、本船もデッキハウス船同様、竣工後は進駐軍専用船に指定される懸念もあり、当時のアメリカ軍高級将校は、寝台車に調理室を設けてホテル代わりとし、北海道を含む日本国内各地を旅行していたため、これに対応できるよう、貨車航送力不足のこの時期に、あえて貨車積載数を犠牲にしてまで、後述するような寝台車航送を重視した設計となった。GHQが本船を日本人用にすると発表したのは着工直前であった。 こうして、待望の真新しい洞爺丸は、戦後初の“大型客船”として、人々の祝福を受け、1947年(昭和22年)11月21日、青函航路に就航した。激しく混雑する列車を降り、真新しい連絡船に乗り換えた乗客たちは、給湯設備の整った洗面台で顔を洗い、整備された明るい船内でくつろぐことができた。戦後混乱期の最中にあった国鉄において一足早く、洞爺丸型各船は快適な旅のサービスを提供したのである。
※この「GHQによる車載客船建造許可」の解説は、「洞爺丸」の解説の一部です。
「GHQによる車載客船建造許可」を含む「洞爺丸」の記事については、「洞爺丸」の概要を参照ください。
- GHQによる車載客船建造許可のページへのリンク