ヒラー

十九世紀、ピアニストは専らピアノ音楽にしか関心を示さないということはまずあり得なかった。「ピアノの詩人」と謳われるショパンでさえ室内楽を楽しみ、オペラに出かけ、自らも室内楽や歌曲を手掛けている。程度の差こそあれ、当時のピアニストは一様に身近に鳴り響く様々な音楽に身を浸し、演奏技術、音楽的教養、作曲技術、教授法をバランスよく身に着けた音楽家であった。このバランスの良さという点において、ヒラーの右に出る同世代のピアニストは見当たらない。ヒラーから発せられた創造力のベクトルはあらゆる方向に長く延びている。 演奏家としてはショパン、リスト、アルカンら当時最高の名手と並び称され、指揮者としてはヨーロッパ各地を巡り、作曲家としてはピアノ曲、交響曲、オペラ、室内楽、歌曲などあらゆるジャンルを追究し、教育者としてはケルン音楽院創設の指揮をとり自ら院長となった。ベルギーの手堅い音楽学者フェティスでさえ、自身の編纂した音楽家列伝のなかでヒラーを当代最高のドイツの音楽家として称揚するのを躊躇わなかった。
ピアニストや指揮者としても活動したドイツの作曲家。器楽作品の他、オペラやオラトリオ、合唱作品を創作した。A.シュミットとフンメルに師事し、ライプツィヒのケヴァントハウス管弦楽団の指揮やケルンの音楽院の院長を務めた。ショパンやリスト、ベルリオーズ、シューマン、メンデルスゾーン夫妻と親交があったことで知られている。
フェルディナント・ヒラー
(Ferdinand Hiller から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/30 09:09 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動フェルディナント・ヒラー | |
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基本情報 | |
生誕 | 1811年10月24日 |
出身地 | ![]() |
死没 | 1885年5月12日(73歳没) |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 作曲家 |
フェルディナント・ヒラー(Ferdinand Hiller, 1811年10月24日 - 1885年5月12日)は、ドイツのロマン派音楽の作曲家。
経歴
フランクフルト・アム・マイン出身。ユダヤ系の裕福な家庭に生まれる。アロイス・シュミットに師事し、10歳で最初の作曲を手懸ける。その後ヴァイマルに行ってヨハン・ネポムク・フンメルに師事し、ゲーテの知遇を得る。フンメルのもとでヒラーはピアニストとして大成長を遂げ、1827年にはウィーンでベートーヴェンに面会し、最初の弦楽四重奏曲を作曲。1829年にパリを訪れ、1836年まで滞在する。父親の訃報によってフランクフルトに引き返す。1839年1月8日にミラノで歌劇《 La Roinilda》が初演される。この頃オラトリオ《エルサレムの崩壊 Die Zerstörung Jerusalems》にも着手する。
その後ライプツィヒを訪れ、かねてからの親友フェリックス・メンデルスゾーンと旧交を温め、1843年から1844年までゲヴァントハウス管弦楽団を指揮、自作のオラトリオも初演した。宗教音楽の研究のためにイタリアを隈なく訪ねた後、1845年に歌劇《夢 Ein Traum》を、1847年には歌劇《コンラーディン Conradin》[1]をそれぞれドレスデンで初演した。指揮者として1847年にデュッセルドルフを、1850年にケルンを訪れ、1851年と1852年にはパリのイタリア劇場でも指揮を執った。ケルンでは指揮者として采配を振り、ケルン音楽院の院長に就任。カール・ライネッケなどすぐれた音楽家を教授に招いた。1884年に勇退し、翌年の暮れに他界した。
ヒラーは頻繁にイングランドを訪れている。ロイヤル・アルバート・ホール落成式のための作品を作曲したほか、《 Nala》と《 Damayanti》はバーミンガムで演奏された。1871年には、自作による一連のピアノ・リサイタルがハノーヴァー・スクエアルームで催された。
音楽について
ヒラーは完成された演奏技巧を身につけたピアニストであり、作曲家としてはあらゆる楽種を手掛けた。創作の大部分を占めるピアノ作品は、彼が当時もっとも高度な演奏技術を有する演奏家であると同時に、きわめて多様な着想とそれをまとめあげる構築力を備えた第一流の音楽家であったことを示している。優秀なピアニストにして音楽教師であり、時には音楽を主題として健筆をふるった。生涯に手がけた作品は200曲を超え、そのなかには6つのオペラと2つのオラトリオ、いくつかのカンタータや数多くの室内楽、ピアノ協奏曲3作がある。パリ時代はショパンと親交があり、このポーランドの巨匠は《ノクターン》作品15、《練習曲集》作品10のイギリス初版をヒラーに献呈している。また、ショパンをメンデルスゾーンとともにライン音楽祭に招待したことでも有名。ショパン以外にも、アルカンとはとりわけ強いきずなで結ばれ、両者は数10年にわたり手紙をかわし、互いに作品も献呈し合っている。豊かな創造力、指揮者、演奏家、作曲家、音楽院教授としての広範な活動力領域、ヨーロッパ中の主要な音楽シーンに足跡を残した点で、彼は19世紀音楽の重鎮というべき存在であり、音源[2][3][4]からも再評価が進んでいる。
参考文献
この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (英語). 13 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 468.
脚注
- ^ “Ignaz Moscheles in Dresden”. led.kmi.open.ac.uk. led.kmi.open.ac.uk. 2020年11月30日閲覧。
- ^ “The three piano concertos”. www.hyperion-records.co.uk. www.hyperion-records.co.uk. 2020年11月30日閲覧。
- ^ “ピアノ・ソナタ第2番、第3番、ピアノ小品集 エーラー”. www.hmv.co.jp. www.hmv.co.jp. 2020年11月30日閲覧。
- ^ “Tobias Koch Trois Amis”. www.hmv.co.jp. www.hmv.co.jp. 2020年11月30日閲覧。
外部リンク
- フェルディナント・ヒラーの楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクト。PDFとして無料で入手可能。
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