ABO式血液型分類法の諜報エージェント
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 11:42 UTC 版)
「吉薗周蔵」の記事における「ABO式血液型分類法の諜報エージェント」の解説
兄事する加藤邑から「上原閣下に會ったら輸血のこと話してみてほしか」と言われていた周蔵は、大正2年(1913年)6月6日に初収穫のアヘンを届けた際にこれを上原に伝えていた。以前呉秀三に師事していた加藤は、血液型判定法が確立していない当時の日本では輸血にリスクが伴う事、欧州では血液型判定法が確立し輸血の心配がなくなった事を知っていたので、陸軍を心配した上での発言であった。 大正3年(1914年)6月、兄事していた加藤邑が死去。 大正4年(1915年)7月、周蔵は上原勇作に第1次収穫のアヘンを届けるため上京。この時、上原から1日でも早く東京に出てくるよう命じられる。この前年に勃発した第一次世界大戦で日本の交戦国となったオーストリア=ハンガリー帝国の首都・ウィーンに潜入し、ABO式血液型分類法の技術を日本に持ち帰る事。これが周蔵に与えられた新たな任務であった。 9月に上京した周蔵は、日本語の出来る英国人から突貫で英会話を習い、10月より呉秀三による医学特訓を開始。加藤邑は生前、呉に手紙を送っており、周蔵の事を伝えていた。 大正5年(1916年)6月、久原鉱業技師・武田内蔵丞(くらのじょう)名義で横浜港を出発。欧州までは同じく久原鉱業技師・遠藤名義の石光真清が同行し、船上で諜報術を叩き込まれる。欧州に着いてからは、出発前に引き合わされた明石元二郎に紹介された下宿先を訪ねた。明石から渡された手紙を訪ね先に差し出すと、周蔵は次の下宿先まで案内され、10月26日、最後に辿り着いたのがウィーン大学学生寮の管理人の家であった。 彫りの深い顔立ちの周蔵は、たいていドイツ人かトルコ人と思われ、日本人に見られたことは1度もなかった。大学の状況や様子を探っていた周蔵は、大正6年(1617年)2月にカール・ラントシュタイナーの助手フェデューレ・シーレと親しくなり、研究室に出入り可能となる。ラントシュタイナー教授の講義を受け、3月18日には研究室資料の筆写を終えた。 4月にドイツに入った周蔵は、石光からの連絡を受け、現地にいたバイオリン留学生・チエコを連れてフランスに移る。その後、英国、シドニー、シンガポールと経由して、6月に日本へ帰国した。 周蔵が持ち帰ったABO式血液型分類法は、陸軍から呉秀三に依頼され実用化された。後日、貴志弥次郎、藤井茂太より輸血が誤りなく出来るようになって日本の有益になっていると聞き感動した事が手記に記されている。
※この「ABO式血液型分類法の諜報エージェント」の解説は、「吉薗周蔵」の解説の一部です。
「ABO式血液型分類法の諜報エージェント」を含む「吉薗周蔵」の記事については、「吉薗周蔵」の概要を参照ください。
- ABO式血液型分類法の諜報エージェントのページへのリンク