ABB出身の会長
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ベルリンの壁崩壊の翌年、ユニリーバは旧東ドイツでマーガリンをつくりはじめた。1991年、買収によりポーランドへ進出した。欧州連合発足まで域内事業を一大化学トラストへ再編する一方、ユニリーバの経営は世界へ拡大し、アジアへ堰を切ったように展開された。1996年9月、英蘭両法人を1929年から統括してきた三人の特別委員会が、収益性の高い部門からも代表を招いて七人で構成されることになった。そしてキャタピラー重機のイギリス支店を売却するなどのリストラに手をつけた。翌年、ナショナル・スターチやクエストをふくむ化学部門をインペリアル・ケミカル・インダストリーズに80億ドルで売却した。この取引は46億ドルの純益となり、その一部はユニリーバの28億ドルにおよぶ社債を償還した。1998年、PBICをモンサントに売却した。ユニリーバは同年、自社が保有する各ブランドの収益を分析し、翌年に総収益の九割を稼ぎ出す強力なブランド以外を売却してゆく方針を明らかにした。エリザベス・アーデン、ユニパス(Unipath)などが売られ、ユニリーバは2004年末までに急速なスリム化を達成した。 2004年9月、イギリス法人のトップがピアソン出身のパトリック(Patrick Cescau)というフランス人に交代した。翌年春からパトリックはグループ全体の社長としてリーバ・ハウスから指令を出すようになった。2005年7月、ユニリーバはカルバン・クラインやヴェラ・ウォンの香水ブランドをフランスのコチ(Coty, Inc.)へ売却した。翌年11月には欧州の冷凍食品事業をまとめてプライベート・エクイティ・ファンド(Permira)に売却した。2007年5月、オランダ代表を務めていたユニリーバ会長が元アトラスコプコ・エレクトロラックス社長ABBグループ現重役のミハエル(Michael Treschow)に交代した。社史で初めてのアウトサイダーである彼は、就任から4年以上かけて欧州を中心とした20億ユーロほどの事業整理を通して2万人をリストラした。整理の対象となった事業には思い出深いウィスクもあった。世界金融危機はユニリーバを中印とロシアへ駆り立て、欧米の事業整理を促した。 2010年、サラ・リー(Sara Lee Corporation)から世界のボディケア事業とヨーロッパの洗剤事業を買収した。2011年4月、プロクターやヘンケルとカルテルを結んでいたとして欧州委員会から1.04億ユーロの制裁金を課された。2013年と2014年に3%の収益減を記録した。2017年2月にクラフト・ハインツからレバレッジド・バイアウトをしかけられたが、ユニリーバは買収提案を拒否し、クラフト・ハインツは発表後2日で提案を撤回した。この事件はイギリス首相のテリーザ・メイが精査を命じていた。 2020年11月30日、1930年以来の2本社制を放棄し、本社機能をロンドンに一本化した。
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