5ヶ年開発計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 05:41 UTC 版)
「アリー・アブドゥッラー・サーレハの政策」の記事における「5ヶ年開発計画」の解説
1990年の統一以来政治的・経済的混乱により開発計画は策定されてこなかったが、1995年にサーレハ政権が「改革プログラム」を開始するにあたり、開発計画の策定も進められた。1995年6月に政府は計画を発表し、教育・保健・水利などの社会インフラの供給に重点を置き、農業や建設業、石油・ガス産業、観光業などは国内外からの投資によって発展させていく考えを示した。その概要は、以下七点にまとめることができ、イエメンの財政赤字縮小を求めるIMF・世銀の意向を色濃く受けたものであった。 3年以内のイエメンリヤルの相場変動制への移行 穀物・米・小麦粉などに対する補助金の段階的削減 政府機関が独占している食料供給システムの改革 予算策定・執行の地方分権化 旧南北の司法制度の統一 アデンに数多く残る公企業の民営化 1998年に株式市場開設 この5ヶ年開発計画は2001年からは第二次5ヶ年開発計画、2006年から第三次5ヶ年開発計画に引き継がれ、IMF・世銀の支援も継続して行われた。また、国連のミレニアム開発目標に関連して2003年~2005年の期間で「貧困削減戦略文書」を、2006~2010年の期間で「第二次貧困削減戦略文書」をそれぞれ発表した。 これら一連の改革プログラムの成果として、1997年にインフレ率は4.6%に下がり、前年の38.8%から大幅に改善した。しかしその後は年10%前後で推移しており、依然として高い状態が続いた。財政収支額は1999年に黒字に回復したものの、2002年からは再び赤字に戻っている(IMF 2019)。 しかし同時に市民の生活水準は悪化し、貧困層が拡大する結果も招いた。1996年、1998年、2005年には補助金削減に反対するデモや暴動が発生し、特に2005年の暴動では22人が死亡し、500人以上が負傷した。このように市民の反発はあったものの、それがサーレハ大統領の退陣につながることはなく、1997年・2003年の国会選挙、1999年・2006年の大統領選挙で与党であるGPCとサーレハ大統領は圧勝し、サーレハ大統領は2011年まで政権を握り続けた。
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