4人の宮廷と担当領域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/10 18:26 UTC 版)
「テトラルキア」の記事における「4人の宮廷と担当領域」の解説
ニコメディア 東方正帝ディオクレティアヌスの都。現トルコ領イズミット。アナトリア北西にあった。バルカン方面やサーサーン朝ペルシアに対する防衛拠点であり、のちのコンスタンティノポリス(現トルコ領イスタンブール)とは異なる。318年のコンスタンティヌス1世による帝国再編に伴い、最大の脅威であるサーサーン朝に面するこの領域は重要性を増した。ディオクレティアヌスの担当領域はオリエンス道(praefectura praetorio Orientis, オリエンス行政区)で、ニコメディアはのちに東ローマ帝国の中核都市となった。 シルミウム 東方副帝ガレリウスの都。現セルビア領スレムスカ・ミトロヴィツァ。ベオグラードを含むヴォイヴォディナ地方にあった。彼の担当は、バルカン半島とドナウ川流域のイリュリクム道(英語版)(praefectura praetorio per Illyricum, イリュリクム行政区)であった。 メディオラヌム 西方正帝マクシミアヌスの都。現イタリア領ミラノ。アルプス山脈近傍にあった。彼の担当領域イタリア道(英語版)(praefectura praetorio Italiae, イタリア行政区)は、ヒスパニアとイタリア、アフリカであった。 アウグスタ・トレウェロルム 西方副帝コンスタンティウス・クロルスの都。現ドイツ領トリーア。ローマから遠く離れた地にあった。この地は防衛戦略上重要なライン川境界に近く、かつてはガリア皇帝テトリクス1世が拠点としていたが、四半世紀を経てガリア道(英語版)(praefectura praetorio Galliarum, ガリア行政区)となっていた。 これら4都市のほか、アドリア海に面した港町アクィレイア、スコットランドとアイルランドのケルト人勢力に接するイングランド北部のエボラクム(Eboracum, 現ヨーク)もまた、マクシミアヌスとコンスタンティウスにとって重要な防御拠点であった。 地方統治に関しては4人の皇帝に正確な領域区分は定められていなかった。テトラルキアはローマ帝国が4つに分裂したという状態を意味するものではない。4人の皇帝はおのおの勢力範囲を持っていたが、それは最高軍事指揮権を主としており、自身が出陣することも頻繁にあった。その間は各皇帝の近衛府長官や知事、総督を長とする官僚組織からなる行政府が執政を代行していた。西方では正帝マクシミアヌスはアドリア海と流砂の西方に位置する属州を管轄した。副帝コンスタンティウスはその領域内でガリアとブリタンニアを統括した。 東方では正帝ディオクレティアヌスと副帝ガレリウスの間に明確な権力区分はなく、柔軟に運用されていた。キリスト教徒の作家ラクタンティウスとアウレリウス・ウィクトル(英語版)(約50年後の著述で信頼性は低い)をはじめとする幾人かの著述家は、4人の正副帝には確固たる勢力区分があったと述べているが、これはテトラルキアに対する理解が不十分であったためと思われる。
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