2010年「SBM48」へ
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「SBM (野球)」の記事における「2010年「SBM48」へ」の解説
2010年のシーズンは、前年不調にあえいだ馬原が復活、守護神として抜群の安定感を取り戻す。またファルケンボーグも前年度以上の圧倒的なピッチングを見せ8回9回の安定感は12球団でも屈指のものとなった。心配された攝津も前年ほどの安定感はないものの十分な投球を見せていた。しかし先発陣の層の薄さから攝津が2試合に一度以上のペースで登板しており、攝津・ファルケンボーグの負担を減らすため、もう1枚のカードが必要なことは明らかだった。 そこで白羽の矢が立ったのが入団5年目の甲藤啓介だった。開幕直後から主にビハインドの場面を任されていた甲藤は、その時点で防御率は決して良くはなかったが、制球力の向上が評価されたか、4月27日の楽天戦で1点差の7回という本来攝津の登板機会の場面に起用される。甲藤はこの場面を見事に無失点で切り抜け、首脳陣の期待に応えた。その後も甲藤は見違えるように安定感のある投球を見せるようになり、主に僅差のビハインド、攝津やファルケンボーグの代役として、3人目のセットアッパーとしての地位を築いた。 SBMに甲藤が加わったことで、「SBMK」や「KSBM」のような新たな呼び方が提唱されたが、語呂の悪さからなかなか定着せずにいた。そこに、甲藤の背番号48から当時人気が高まっていたアイドルグループ「AKB48」にあやかっての「SBM48」という呼び名がTwitter、スポーツ紙等で用いられるようになり、語呂の良さから公式的な愛称となった。なお、甲藤の入場曲はシーズン途中からAKB48の「会いたかった」に変更されている。 かくして結成された「SBM48」だったが、長いイニングを任せられる先発投手が杉内俊哉、和田毅の2名しかおらず、和田も完投はシーズン1度というチーム事情もあって人数がそろっても4人合わせて250試合ペースという登板過多は相変わらずだった。ビハインドの場面ではシーズン途中オリックスから移籍した金澤健人が任されることが多く駒は増えていたが、特にシーズンを通じて投げるのが初めての甲藤は後半やや疲れを見せ始めていた。 そんな中、主に敗戦処理や左のワンポイントとして登板していた森福允彦が8月半ばから調子を上げ、特に8月26日のオリックス戦では延長11回・12回に5者連続三振を奪うなどと好投。その翌日のロッテ戦でも5回一死満塁の場面を火消し役として見事に抑えプロ初勝利を飾る。待望の左腕リリーフとして一気に台頭した。この森福の台頭により、森福のニックネームが「ちょめ」であったこともあり、同時期にAKB48が味覚糖のぷっちょのCMキャラクターに起用され、「AKB48ちょ」というキャッチフレーズが用いられたのをもじった「SBM48ちょ」(えすびーえむふぉーてぃーえいちょ)、さらに金澤を加えて「火消シックス」、「SBM48貯金」などという新呼称も一部メディアで用いられたが定着しなかった。 最終的に42ホールドポイントで攝津(4勝38ホールド)とファルケンボーグ(3勝39ホールド)が最優秀中継ぎ投手を受賞した。また、攝津は2年連続で70試合以上登板を記録した。 選手登板勝利敗戦セ|ブホ|ルド勝率打者投球回被安打被本塁打与四球敬遠与死球奪三振暴投ボ|ク失点自責点防御率WHIP攝津正 71 4 3 1 38 .571 315 82.1 52 3 21 2 5 89 1 0 23 21 2.30 0.89 ファルケンボーグ 60 3 2 1 39 .600 230 62.0 39 0 8 0 0 83 1 0 10 7 1.02 0.76 馬原孝浩 53 5 2 32 2 .714 246 60.2 54 1 12 0 1 49 3 0 12 11 1.63 1.09 甲藤啓介 65 2 0 0 15 1.000 324 76.0 66 3 23 3 9 74 1 0 29 25 2.96 1.17 森福允彦 36 3 1 0 5 .750 188 48.2 34 5 10 1 3 45 0 0 17 14 2.59 0.91 金澤健人 38 1 1 0 1 .500 201 46.2 40 3 18 0 3 30 1 0 18 15 2.89 1.24
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