2度目の隠棲
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1933年にレジオンドヌール勲章シュバリエを受け、フランスの地方や世界各国で講演会を行った。1936年には再びサン=ブノワ=シュル=ロワールに隠棲し、以後、パリに戻ることはなかったが、画家のロジェ・トゥールーズ(フランス語版)、詩人のミシェル・マノル(フランス語版)、マルセル・ベアリュ(フランス語版)、ジャン・ブーイエール(フランス語版)、ルネ・ギー・カドゥー(フランス語版)など若い才能を次々と発掘した。ロジェ・トゥールーズもまた《マックス・ジャコブの肖像、または蘭のある肖像》(カンペール美術館蔵)を描いている。 1939年に第二次世界大戦が勃発すると、ナチス・ドイツによって反ナチス的な書物やユダヤ人による出版が禁止され、厳しい検閲が行われた。『新フランス評論』も1940年6月1日にいったん終刊となり、ポーランは編集長を辞任し、対独協力派に転向したピエール・ドリュ・ラ・ロシェルのもとに再刊された。これは駐仏ドイツ大使オットー・アベッツ(フランス語版)の要請によるものであり、アベッツは別途、禁書目録「オットー・リスト(フランス語版)」を発表。これは発禁または書店から回収する842人のユダヤ人作家・反ナチス作家(主に共産主義者)の著書1,060冊の一覧であり、マックス・ジャコブの最後の詩集『バラード』(1938年発表)も含まれていた。 1939年、マックス・ジャコブは遺言を作成し、ピエール・コルを遺言執行者に指定した。ピエール・コルはマックス・ジャコブの著書を集めてカンペール図書館に寄贈し、サン=ブノワ=シュル=ロワール墓地にマックス・ジャコブの墓を建てる手はずを整えた。マックス・ジャコブは同年、詩人エドモン・ジャベス宛の手紙に、「私はこの世を越えた。殉教者となることを甘受する」と書いている。 1942年にカンペールでサロンを開いていた医師オーギュスタン・テュセ(フランス語版)のもとにマックス・ジャコブの友人サン=ポル=ルー、薬剤師・聖職者のジャン・レオナルディ(フランス語版)、作家ルイ=フェルディナン・セリーヌ、レジスタンス運動家ジャン・ムーランなどが集まっていた。同年6月にはヴィシー政権によりユダヤ人の財産が没収され、ダビデの星の着用が義務化された。12月に兄ガストンがカンペールで逮捕され、翌43年2月16日にアウシュヴィッツへ強制移送された。マックス・ジャコブは、多くの友人から自宅にかくまう、自由地域(フランス語版)への逃亡を手伝う、偽造の身分証明書を手に入れるといった申し出を受けたが、すべて拒否し、自らを「ユダヤ人の両親と祖父母をもつ」フランス人として登録した。 1944年1月、妹のミルテ=レアがパリでゲシュタポに逮捕され、ドランシー収容所に送られた。2月24日、マックス・ジャコブも逮捕されてオルレアン刑務所に収容され、4日後に囚人番号15872としてドランシー収容所に送られた。ミルテ=レアを探したが、彼女はすでにアウシュヴィッツに移送され、到着後まもなくガス室に送られていた。
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