2度目の隠棲とは? わかりやすく解説

2度目の隠棲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/21 16:56 UTC 版)

マックス・ジャコブ」の記事における「2度目の隠棲」の解説

1933年レジオンドヌール勲章シュバリエを受け、フランスの地方世界各国講演会行った1936年には再びサンブノワシュルロワール隠棲し、以後パリに戻ることはなかったが、画家のロジェ・トゥールーズ(フランス語版)、詩人のミシェル・マノル(フランス語版)、マルセル・ベアリュ(フランス語版)、ジャン・ブーイエール(フランス語版)、ルネ・ギー・カドゥー(フランス語版)など若い才能次々と発掘した。ロジェ・トゥールーズもまた《マックス・ジャコブ肖像、またはのある肖像》(カンペール美術館)を描いている。 1939年第二次世界大戦勃発すると、ナチス・ドイツによって反ナチス的な書物ユダヤ人による出版禁止され厳し検閲が行われた。『新フランス評論』も1940年6月1日にいったん終刊となり、ポーラン編集長辞任し対独協力派に転向したピエール・ドリュ・ラ・ロシェルのもとに再刊された。これは駐仏ドイツ大使オットー・アベッツ(フランス語版)の要請よるものであり、アベッツは別途禁書目録「オットー・リスト(フランス語版)」を発表。これは発禁または書店から回収する842人のユダヤ人作家反ナチス作家(主に共産主義者)の著書1,060冊の一覧であり、マックス・ジャコブ最後の詩集『バラード』(1938年発表)も含まれていた。 1939年マックス・ジャコブ遺言作成し、ピエール・コルを遺言執行者指定した。ピエール・コルはマックス・ジャコブ著書集めてカンペール図書館寄贈しサンブノワシュルロワール墓地マックス・ジャコブの墓を建てる手はず整えたマックス・ジャコブ同年詩人エドモン・ジャベスの手紙に、「私はこの世越えた殉教者となることを甘受すると書いている。 1942年カンペールサロン開いていた医師オーギュスタン・テュセ(フランス語版)のもとにマックス・ジャコブ友人サン=ポル=ルー薬剤師聖職者のジャン・レオナルディ(フランス語版)、作家ルイ=フェルディナン・セリーヌレジスタンス運動ジャン・ムーランなどが集まっていた。同年6月にはヴィシー政権によりユダヤ人財産没収されダビデの星着用義務化された。12月に兄ガストンカンペール逮捕され、翌43年2月16日アウシュヴィッツ強制移送された。マックス・ジャコブは、多く友人から自宅かくまう、自由地域フランス語版)への逃亡手伝う、偽造身分証明書手に入れるといった申し出受けたが、すべて拒否し、自らを「ユダヤ人両親祖父母をもつ」フランス人として登録した1944年1月、妹のミルテレアパリゲシュタポ逮捕されドランシー収容所送られた。2月24日マックス・ジャコブ逮捕されオルレアン刑務所収容され4日後に囚人番号15872としてドランシー収容所送られた。ミルテレア探したが、彼女はすでにアウシュヴィッツ移送され到着後まもなくガス室送られていた。

※この「2度目の隠棲」の解説は、「マックス・ジャコブ」の解説の一部です。
「2度目の隠棲」を含む「マックス・ジャコブ」の記事については、「マックス・ジャコブ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「2度目の隠棲」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「2度目の隠棲」の関連用語

2度目の隠棲のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



2度目の隠棲のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのマックス・ジャコブ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS