1999年6月 - : ユーゴスラビア軍の撤退とKFOR進駐とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 1999年6月 - : ユーゴスラビア軍の撤退とKFOR進駐の意味・解説 

1999年6月 - : ユーゴスラビア軍の撤退とKFOR進駐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 04:49 UTC 版)

コソボ紛争」の記事における「1999年6月 - : ユーゴスラビア軍の撤退とKFOR進駐」の解説

KFOR派遣については、指揮系統担当地域巡ってアメリカロシア交渉続けていたもの難航し6月11日に一旦決裂NATO軍はこの状況下で部隊の派遣動きミロシェヴィッチKFOR条件受け入れた後の6月12日KFORコソボへの進駐開始したKFOR中心となったのはNATOの軍であり、コソボでの戦闘指揮するために準備されいたものの、平和維持活動従事することになったKFORは、イギリス軍陸軍中将マイク・ジャクソンMike Jackson)の指揮の下、連合軍緊急対応軍団Allied Rapid Reaction Corps)を司令部としていた。KFOR各国の軍によって構成された。イギリス軍(第4装甲旅団と第5空輸旅団からなる旅団)、フランス軍ドイツ軍西からイタリア軍アメリカ軍などそのほかは南からコソボに入境した。この時のアメリカ軍働き初期介入部隊Initial Entry Force)と呼ばれ、第1機甲師団率いられた。その配下置かれたのはドイツのバウムホルダー(Baumholder)から来たTF1-35機甲任務部隊アメリカフォートブラッグFort Bragg)から来た第505落下傘歩兵連隊第2大隊ドイツシュヴァインフルトSchweinfurt)から来た第26歩兵連隊第1大隊、第4機甲連隊E中隊である。アメリカ軍初期介入部隊は、後のボンドスティール基地Camp Bondsteel)に近いフェリザイ / ウロシェヴァツ(Ferizaj / Uroševac)、およびモンタイス基地Camp Monteith)に近いジラニ / グニラネの両地域占領実現した初期介入部隊は4箇月にわたってここに留まりコソボ南西部セクター秩序回復あたったアメリカ初期介入部隊地元アルバニア人たちから歓声浴び、花を投げて迎えられた。その間KFOR兵士たちコソボ各地の町や順次入っていった。抵抗を受けることは無かったものの、事故によって初期介入部隊アメリカ軍兵士3名が死亡したロシア側もNATO主導による既成事実化を避けるため、合意未成立の中でKFOR部隊の派遣踏み切り最も近いボスニア・ヘルツェゴビナ平和安定化部隊SFOR)に参加していた空挺部隊から一部抽出し、約200規模派遣部隊編成ユーゴスラビア国内経由して陸路プリシュティナ送り込みNATO軍に先んじて6月12日プリシュティナ空港周辺展開した到着したロシア軍は、過激派脅威さらされていた現地セルビア人住民から歓迎受けたロシア軍は、この先部隊続き1,000規模主力空挺部隊ロシア本国から空輸する準備整えていたが、NATO圧力受けたハンガリーブルガリアルーマニア上空通過認めなかったため増派中断し第一波の約200名のみが7月初旬まで現地を守ることとなったNATOロシア双方事前合意のない派兵現地緊張が高まる中、KFOR指揮系統派遣地区に関する交渉6月19日まとまりロシア軍派遣兵力規模3,600名(うち戦闘部隊は5個大隊2,850名)でKFOR参加しNATO指揮系統外の独自の指揮系統行動することが認められた。また、KFOR指揮権統一を保つため、関連するNATOの各段階司令部欧州連合軍南欧軍・コソボ国際部隊等)にロシア軍代表が派遣されることとなった7月4日までには、ロシア軍具体的な行動に関するNATOとの合意成立しロシア軍は、空輸の他、ノヴォロシースクトゥアプセからギリシャテッサロニキへの海上輸送併用して約3,600名の部隊現地派遣したNATO軍側は、第1装甲師団隷下第3野戦砲兵連隊第2大隊ロシア軍の展開を支援した6月時点で、進駐したロシア軍には、現地セルビア人住民から、アルバニア過激派による脅迫などの被害訴え寄せられていた。ユーゴスラビア政府は、コソボ少数派となるセルビア人などの保護について懸念しており、ロシアKFOR派遣にあたっては、セルビア人住民の多い地域中心にロシア軍単独進駐地区設定するようNATO側と交渉していたが、NATO側はコソボ分割につながるとしてこれを認めずNATO側5箇国がコソボ全域分担して管轄区域設けロシア軍そのうちアメリカ・フランス・ドイツの管轄区域一部に独自の指揮系統保って組み込まれるとなった結果的にKFORセルビア人など少数派住民迫害から守りきれず、多数セルビア人住民などが迫害逃れて難民となりコソボ離れる事態を防ぐことはできなかった。

※この「1999年6月 - : ユーゴスラビア軍の撤退とKFOR進駐」の解説は、「コソボ紛争」の解説の一部です。
「1999年6月 - : ユーゴスラビア軍の撤退とKFOR進駐」を含む「コソボ紛争」の記事については、「コソボ紛争」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「1999年6月 - : ユーゴスラビア軍の撤退とKFOR進駐」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「1999年6月 - : ユーゴスラビア軍の撤退とKFOR進駐」の関連用語

1999年6月 - : ユーゴスラビア軍の撤退とKFOR進駐のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



1999年6月 - : ユーゴスラビア軍の撤退とKFOR進駐のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのコソボ紛争 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS