1999年6月 - : ユーゴスラビア軍の撤退とKFOR進駐
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「コソボ紛争」の記事における「1999年6月 - : ユーゴスラビア軍の撤退とKFOR進駐」の解説
KFORの派遣については、指揮系統や担当地域を巡ってアメリカとロシアが交渉を続けていたものの難航し、6月11日に一旦決裂。NATO軍はこの状況下で部隊の派遣に動き、ミロシェヴィッチがKFORの条件を受け入れた後の6月12日、KFORはコソボへの進駐を開始した。KFORの中心となったのはNATOの軍であり、コソボでの戦闘を指揮するために準備されていたものの、平和維持活動に従事することになった。KFORは、イギリス軍の陸軍中将マイク・ジャクソン(Mike Jackson)の指揮の下、連合軍緊急対応軍団(Allied Rapid Reaction Corps)を司令部としていた。KFORは各国の軍によって構成された。イギリス軍(第4装甲旅団と第5空輸旅団からなる旅団)、フランス軍、ドイツ軍は西から、イタリア軍やアメリカ軍などそのほかは南からコソボに入境した。この時のアメリカ軍の働きは初期介入部隊(Initial Entry Force)と呼ばれ、第1機甲師団に率いられた。その配下に置かれたのはドイツのバウムホルダー(Baumholder)から来たTF1-35機甲任務部隊、アメリカのフォートブラッグ(Fort Bragg)から来た第505落下傘歩兵連隊第2大隊、ドイツのシュヴァインフルト(Schweinfurt)から来た第26歩兵連隊第1大隊、第4機甲連隊E中隊である。アメリカ軍の初期介入部隊は、後のボンドスティール基地(Camp Bondsteel)に近いフェリザイ / ウロシェヴァツ(Ferizaj / Uroševac)、およびモンタイス基地(Camp Monteith)に近いジラニ / グニラネの両地域の占領を実現した。初期介入部隊は4箇月にわたってここに留まり、コソボ南西部セクターの秩序回復にあたった。アメリカの初期介入部隊は地元のアルバニア人たちから歓声を浴び、花を投げて迎えられた。その間、KFORの兵士たちはコソボ各地の町や村に順次入っていった。抵抗を受けることは無かったものの、事故によって初期介入部隊のアメリカ軍兵士3名が死亡した。 ロシア側もNATO主導による既成事実化を避けるため、合意未成立の中でKFOR部隊の派遣に踏み切り、最も近いボスニア・ヘルツェゴビナで平和安定化部隊(SFOR)に参加していた空挺部隊から一部を抽出し、約200人規模の派遣部隊を編成。ユーゴスラビア国内を経由して陸路プリシュティナに送り込み、NATO軍に先んじて6月12日にプリシュティナ空港周辺に展開した。到着したロシア軍は、過激派の脅威にさらされていた現地のセルビア人住民から歓迎を受けた。ロシア軍は、この先遣部隊に続き1,000人規模の主力の空挺部隊をロシア本国から空輸する準備を整えていたが、NATOの圧力を受けたハンガリー、ブルガリア、ルーマニアが上空通過を認めなかったため増派は中断し、第一波の約200名のみが7月初旬まで現地を守ることとなった。 NATOとロシア双方の事前合意のない派兵で現地で緊張が高まる中、KFORの指揮系統や派遣地区に関する交渉は6月19日にまとまり、ロシア軍は派遣兵力規模3,600名(うち戦闘部隊は5個大隊2,850名)でKFORに参加し、NATOの指揮系統外の独自の指揮系統で行動することが認められた。また、KFORの指揮権の統一を保つため、関連するNATOの各段階の司令部(欧州連合軍・南欧軍・コソボ国際部隊等)にロシア軍代表が派遣されることとなった。7月4日までには、ロシア軍の具体的な行動に関するNATOとの合意も成立し、ロシア軍は、空輸の他、ノヴォロシースクとトゥアプセからギリシャのテッサロニキへの海上輸送も併用して約3,600名の部隊を現地に派遣した。NATO軍側は、第1装甲師団隷下の第3野戦砲兵連隊第2大隊がロシア軍の展開を支援した。 6月の時点で、進駐したロシア軍には、現地のセルビア人住民から、アルバニア系過激派による脅迫などの被害の訴えが寄せられていた。ユーゴスラビア政府は、コソボで少数派となるセルビア人などの保護について懸念しており、ロシアもKFOR派遣にあたっては、セルビア人住民の多い地域を中心にロシア軍の単独進駐地区を設定するようNATO側と交渉していたが、NATO側はコソボの分割につながるとしてこれを認めず、NATO側5箇国がコソボ全域を分担して管轄区域を設け、ロシア軍はそのうちアメリカ・フランス・ドイツの管轄区域の一部に独自の指揮系統を保って組み込まれる形となった。結果的に、KFORはセルビア人など少数派住民を迫害から守りきれず、多数のセルビア人住民などが迫害を逃れて難民となりコソボを離れる事態を防ぐことはできなかった。
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