1990年代と2000年代の黄金期
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「RCDマジョルカ」の記事における「1990年代と2000年代の黄金期」の解説
1990-91シーズン、マジョルカはベスト8でバレンシアCFを、準決勝でスポルティング・デ・ヒホンを下してアトレティコ・マドリードとのコパ・デル・レイ決勝に進出した。クラブとしては史上初めての決勝進出となったが、延長111分のアルフレド・サンタエレナの決勝ゴールによってタイトル獲得を逃した。 1997年、クラブの監督にまだ欧州での指導経験が皆無だったアルゼンチン人のエクトル・クーペルを招聘した。クーペルは前年にアルゼンチンのCAラヌースでコパCONMEBOL優勝を果たしていたことを買われての就任だった。就任1シーズン目のコパ・デル・レイでは、クラブ2度目となる決勝進出を果たしたものの、PK戦の末FCバルセロナの前に敗戦し、またもメジャータイトルに手が届かなかった。リーグ戦では好調を維持し続け、5位でフィニッシュした。また、コパ準優勝により出場権を得たスーペルコパ・デ・エスパーニャでは因縁の相手バルセロナに2戦合計3-2で勝利し、クラブ創設以降初めてとなるメジャータイトルを獲得した。翌1998-99シーズン、バルセロナがリーグ戦とカップ戦の2冠を達成した影響を受け、リーグ戦5位だったマジョルカにUEFAカップウィナーズカップ出場権が回ってきた。この大会では、KRCヘンクやチェルシーFCを下して決勝に進み、SSラツィオとの試合に臨んだ。7分にクリスティアン・ヴィエリのゴールで失点するも、直後の11分にダニ・ガルシアのゴールで試合を振り出しに戻した。同点のまま試合終了と思われた81分、ラツィオの中心選手だったパベル・ネドベドのゴールを許し、1-2で敗戦を喫した。しかし、この1998-99シーズンはクーペルがラヌースから連れてきたカルロス・ロアがサモラ賞を受賞したことや、クーペルが手がけた堅守がベースのチーム作りが功を奏し、史上最高成績となるリーグ戦3位という成績を収めた。1999-00シーズンはフェルナンド・バスケス新体制でスタートしたものの、リーグ戦10位でシーズンを終えるなどクーペル期ほどの成功は見られなかった。2000年5月27日、すでにラ・リーガでの実績があったルイス・アラゴネスを新監督に据えたマジョルカは、サミュエル・エトオなどの活躍もあってリーグ戦で史上最高となる勝ち点73を稼いで一昨シーズンと同じくリーグ戦3位に輝いた。しかし、シーズン終了後にアラゴネスは、セグンダに降格し低迷していた選手時代の古巣アトレティコ・マドリードに監督として復帰したため、マジョルカは13シーズンぶりに外国籍監督であるドイツ人のベルント・クラウスを招聘した。クラウスを迎えてのマジョルカだったが、リーグ序盤から勝ちきれない試合が多く、4月にトメウ・ジョンパール、シーズン終了後にグレゴリオ・マンサーノと監督交代が続く不安定な期間を送った。しかし、マンサーノはリーグ戦こそ不出来だったが、コパ・デル・レイでは優勝を飾った。2000年代後半はリーグ中位以下を彷徨うシーズンが10シーズン近く続き、2010年代を迎えた。また、この2000年代はクラブ初となる日本人プレーヤーが誕生した。2005年1月にセレッソ大阪からマジョルカにやって来た大久保嘉人である。デビュー戦は、当時ラ・リーガで上位争いをしていたデポルティーボ・ラ・コルーニャ相手だったが、デビュー戦にして1ゴール1アシストという強烈なインパクトを残した。しかし、デポルティーボ戦以降は、その試合で膝に負った怪我の影響もあり、満足いく結果を残せず、2005-06シーズン終了後に日本へ帰国した。
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