1990年代から関内移転にかけてとは? わかりやすく解説

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1990年代から関内移転にかけて

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 01:39 UTC 版)

テレビ神奈川」の記事における「1990年代から関内移転にかけて」の解説

TVK1980年代から1990年代初頭にかけ、好景気横浜そごうなど大スポンサー存在後ろ盾となっていた。特に横浜そごう(現・そごう横浜店)とTVKの関係は緊密で、「キャプテンロコスタジオ」(4F)「みなとみらい21スタジオ」(地下1階)という2つサテライトスタジオ設け、「カフェシティヨコハマ」や、かねてからあった夕方ミューコム制作生番組威力発揮した。しかし、バブル崩壊後にそごうが経営不振陥ると、それらの番組打ち切りとなり、ついにはスタジオ閉鎖横浜そごうTVK持株売却と、TVKとそごうとの関係は急速に悪化していった。さらに神奈川県財政危機広報番組予算が7億円か数千単位まで縮小された)により売り上げ30億円近く減少売上最高期の1/4近く90億円→60億円)した。この煽りを受け自社制作率は急速(70%→40%)に減り2002年には売り上げTOKYO MXに、2003年には自社制作率でもテレビ埼玉抜かれる非常事態となった。 この非常事態見て「県が県域メディア経営する時代終わった」という岡崎洋知事意向により、2001年株式売却が行われ、筆頭株主神奈川県から神奈川新聞社に移ることとなった当初新聞社テレビ局違いもあって両社連携しっくりいかなかったが、その後第三者割当増資県内市町などが応じる)、新社屋横浜メディア・ビジネスセンター建設移転、「ヨコハマ開放区」のVI導入電通との本格タッグ開始)、独立放送局初の地上デジタル放送開始2004年12月1日)、独立放送局には珍しいインデックス社との提携による携帯公式サイトオープン(全キャリア対応)など、積極的な戦略に出ることになる。これにより、2005年度3期連続増収新社屋移転後初の黒字決算達成売り上げではTOKYO MXを再び抜いた。また大幅に減少した自社制作率も40%台に回復した2004年4月横浜市中区太田町横浜メディア・ビジネスセンター神奈川新聞社同居)が完成5月10日開局以来32年使われてきた中区山下町社屋から移転した社屋移転契機として、局の愛称長年使われた「TVKテレビ」から「tvk」 に変更され、またコーポレート・スローガンとして「ヨコハマ開放区」が導入された。なお、旧社屋跡地には記念碑建立されている。

※この「1990年代から関内移転にかけて」の解説は、「テレビ神奈川」の解説の一部です。
「1990年代から関内移転にかけて」を含む「テレビ神奈川」の記事については、「テレビ神奈川」の概要を参照ください。

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