1988-1999年
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1988年、全国の弁護士が連携して初めて「過労死110番」が開設される。当時の日本国政府や医学会も「働きすぎでは死なない」と全面否定。過労死や過労自殺に対し労働災害申請はほとんど認められず、裁判でも勝てず、労働組合も向き合ってこなかった。 1990年12月4日、読売新聞の新聞奨学生として新聞販売店に勤務していた学生が過労により死亡した。同日午後3時20分頃、学生は販売店の作業場内で嘔吐を伴う体調不良を訴え、そのまま昏倒状態になり、救急車で病院へ搬送されたが、午後9時30分に死亡した。遺族は裁判に踏み切り、最終的に1999年に読売新聞社と和解が成立した。この事件などを踏まえ各社新聞奨学生の過重勤務の実態、その制度の特徴から強制労働的性質があることが日本共産党の吉川春子などにより国会質疑で指摘された。詳細は「読売新聞奨学生過労死事件」を参照 1991年、電通の男性社員が過労と上司からのパワーハラスメントにより自殺した「電通事件」が発生。この事件により「過労自殺」というワード(単語)が初めてクローズアップされたと言われる。詳細は「電通事件」を参照 1997年6月、時事通信社の政治部記者(当時36歳)が糖尿病の合併症が原因で死亡した。遺族はこれは首相官邸での取材活動が重労働であったという理由で1999年に労災申請したが、中央労働基準監督署が病気と仕事の因果関係を認めなかった。そこで遺族は労災認定を求めて提訴したが、2010年4月15日、東京地裁はこの請求を棄却した。 1999年、東京都の小児科医の男性が病院屋上から投身自殺した。同医師は、当直の日は時に30時間を超える長時間勤務に病院の経営方針が重なり、相当な激務と心労が重なっていたと思われる。遺族側はこの自殺が過労自殺であるとして労災認定を求めて裁判を起こし、2007年3月28日に国が控訴を断念して労災認定が確定した。
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