1984年-1989年とは? わかりやすく解説

1984年 - 1989年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 00:41 UTC 版)

U2」の記事における「1984年 - 1989年」の解説

1984年エチオピア飢餓救済目指すバンド・エイドチャリティーシングル「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」(Do They Know It's Christmas)にボノアダム・クレイトン参加その後ボノアフリカ諸国経済的自立支援する様々な国際的プロジェクト関与している。 1984年10月4枚目のアルバム『焰』(The Unforgettable Fire)を発表原題の『Unforgettable Fire』とは広島・長崎への原爆投下生き抜いた被爆者達が描いた絵画タイトルで、絵画見たメンバー感銘受けて名づけられたものである。元ロキシー・ミュージックブライアン・イーノ弟子ダニエル・ラノワプロデューサー迎えてサウンド深化し、このコンビその後重要な共同作業者となる。シングルプライド」(Pride (In The Name Of Love))はマーティン・ルーサー・キング・ジュニアキング牧師)へのトリビュート・ソングであり、全英シングルチャート3位ヒットとなった1985年にはウェンブリー・スタジアム行われたチャリティーイベントライヴエイド』に出演したが、ボノ観客席降りてしまい、3曲歌う予定が2曲で時間切れになってしまった。大舞台アクシデントメンバー意気消沈したが、クイーンと並ぶ熱いパフォーマンス称賛され世界中テレビ中継されたことで大ブレイクするきっかけになった1987年3月に5目のアルバムヨシュア・トゥリー』(The Joshua Tree)を発表全英全米チャート1位(全英アルバムチャートBillboard 200)を獲得しイギリス音楽史上最速売れたアルバムとなり、世界各国No.1ヒット記録したシングルカットされた「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」(With Or Without You)、「終わりなき旅」(I Still Haven't Found What I'm Looking For)はBillboard Hot 100で1位となったライブツアー規模も、アリーナクラスからスタジアムクラスに拡大したまた、ロビー・ロバートソンソロ・アルバムロビー・ロバートソン』にメンバー全員参加した1988年にはアメリカツアードキュメンタリー映画魂の叫び』を公開し同名アルバム発表ボブ・ディランB.B.キングヴァン・ダイク・パークスらが参加した先行シングルの「ディザイアー」(Desire)は初の全英シングルチャート1位を獲得した1989年には2度目日本公演開催されスペシャルゲストB.B.キング迎えて行われた。 この時期音楽スタイルアメリカルーツ・ミュージック傾倒しロック源流であるブルースゴスペルソウルなどブラック・ミュージック要素積極的に取り入れられた。

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1984年~1989年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 05:29 UTC 版)

デフ・レパード」の記事における「1984年~1989年」の解説

1984年2月バンド本拠地アイルランドダブリン移したバンド新しアルバムの制作取りかかるが、同年12月31日ドラマーリック・アレンシェフィールド郊外交通事故起こし左腕全て切断することになった他のメンバーアレン以外のドラマー考えられないメンバーチェンジ考えことなく一時期バンド自体解散することも考えたが、事故報道経てそのような経緯知ったシモンズ社がアレン両足右腕だけでも演奏可能なカスタマイズのエレクトリック・ドラムを製作し他のメンバーが、アレンがそれに対応して復帰を待つかたちで、1986年にドニントンで開催されモンスターズ・オブ・ロックバンド久々にライブ行った1987年8月3日には、4作目となる『ヒステリア』 (Hysteria) を発表先行シングルの「ウィメン」こそ奮わなかったものの、続くシングルアニマル」は全英シングルチャートで6位、全米シングルチャート19位を記録し母国イギリスでもスター仲間入りを果たす。アルバム自体もその週には全英1位となった翌年1988年3月には3枚目のシングルヒステリア」が全米シングルチャート10位にランクインし、彼らにとって初めての全米TOP10ヒットとなると共に、続く「シュガー・オン・ミー」は全米シングルチャート2位記録アメリカで売り上げ前作炎のターゲット』と比べスローペースであったが、ほぼ1年後1988年7月に、全米アルバムチャートでも1位を獲得する10月には「ラヴ・バイツ」が全米シングルチャートの1位に輝くと共に翌年1989年1月には「アーマゲドン」も全米シングルチャート3位記録するヒットとなり、更にはロケット」も全米シングルチャート12位を記録したことで、同作2018年まで全世界で2800万枚売り上げる空前大ヒット作となる。またハードロックバンドアルバムとしては、7シングル全米シングルチャート全てチャートインしたアルバムは、2018年時点では、このアルバム以外に存在していない。 センター・ステージを採用したツアーは、15ヶ月間にわたって行われた

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