1977年 - 1979年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 14:13 UTC 版)
「天地真理」の記事における「1977年 - 1979年」の解説
1977年1月23日、甲状腺機能不調などを理由に、東京・港区三田の東京専売病院に緊急入院、約1か月後の2月20日には退院したものの引き続き休養生活に入り、芸能活動を約2年半にわたり休業した。 ただしこの入院について、天地は『週刊新潮』2015年10月1日号掲載のインタビュー記事で、人気がなくなってきたためにうつ病になったのが真相であると語っている。 1979年5月1日、天地は新宿・厚生年金ホールで開かれた「森田公一とトップギャラン結成10周年記念コンサート」に招かれ、久々に公衆の面前に姿を現した。同年6月7日、「天地真理を励ます会」が発起人の森光子・森田公一立ち合いのもと、CBS・ソニー録音スタジオにおいて200名を超える取材陣を前に開かれた。復帰会見では「とにかく歌が好き。私には歌しかないと思っていました。」というメッセージを自ら公表し、また、約2年半休業の間ファンクラブが存続していたことに対し、支援を忘れなかったファンへの感謝の辞を述べた。同月10日午前8時5分から放送のTBSラジオ『ラジオリクエスト大賞・森田公一の青春ベストテン』へのレギュラー出演を機にカムバック。このときの所属事務所は渡辺ワークショップである。同月16日からは美顔器「エレンスパック」のテレビコマーシャルにも登場、ナレーションは森光子が務めた。 同年10月15日、東京芝・ABCホールで復帰コンサート「天地真理 明日への出発(たびだち)」(主催:渡辺ワークショップ、CBS・ソニー) を行う。ファンとより近い会場でという天地の希望により400席のホールで開催され、収容数を100名超えるファンが駆けつけた[要出典]。特別ゲストに森田公一を迎え、演奏は当時太田裕美のバックバンドであった「コズミックララバイ」と淡海悟郎が担当。客席で森光子が鑑賞した。 同年12月に森田公一作曲、松本隆作詞「愛・つづれ織り」を発売。
※この「1977年 - 1979年」の解説は、「天地真理」の解説の一部です。
「1977年 - 1979年」を含む「天地真理」の記事については、「天地真理」の概要を参照ください。
1977年~1979年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 05:29 UTC 版)
「デフ・レパード」の記事における「1977年~1979年」の解説
1977年、タプトン・スクールの生徒であったリック・サヴェージ(ベース)、ピート・ウィリス(ギター)、トニー・ケニング(ドラム)により、バンドの母体となるアトミック・マスが結成される。偶然、バスに乗り遅れたピートがジョー・エリオットと出会い、ギタリストとして勧誘するが、最終的にはジョー・エリオットはヴォーカリストとして参加。 バンド名は、元々"Deaf Leopard"(耳の聞こえない豹)であったが、ケニングの提案で現在の綴りに変更される。1978年1月には、スティーヴ・クラークがバンドに加入する。 同年11月には3曲のコンパクト盤であるDef Leppard EPのレコーディング作業に入る。この時トニーはバンドを去り、後任としてフランク・ヌーンが加入するが、彼も脱退し、その月末には当時15歳のリック・アレンが正式なドラマーとして加入する。その後フォノグラム社と契約。
※この「1977年~1979年」の解説は、「デフ・レパード」の解説の一部です。
「1977年~1979年」を含む「デフ・レパード」の記事については、「デフ・レパード」の概要を参照ください。
- 1977年 1979年のページへのリンク