1971年 - 1977年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 21:15 UTC 版)
「上沼恵美子」の記事における「1971年 - 1977年」の解説
父が演芸好きだったことから、幼少時から姉妹揃って演芸や歌を見たり聞いたりして育つ。祖母は浄瑠璃の師匠、太棹三味線の名手だった。姉は浄瑠璃のものまね、自身は美空ひばりのものまねをしていた。 元々は歌手志望だったが、漫才コンビとしてデビューするはずだった姉の相方がデビュー前に失踪したため、姉と漫才コンビを組むことになり、1968年(昭和43年)4月中頃大須演芸場の舞台に立つ。中学校卒業後、1971年に姉妹漫才コンビ「海原千里・万里」の妹海原千里(海原お浜・小浜門下)としてデビュー。同年、上方お笑い大賞銀賞を受賞する。高校生ながら巧みな話術で一躍スターになり、当時人気アイドルで白雪姫と称されていた天地真理に倣い、「漫才界の白雪姫」と呼ばれていた。1973年にはNHK漫才コンテスト優秀敢闘賞を受賞し、1975年にはレコード「大阪ラプソディー」が40万枚を売り上げて大ヒットする。19歳の時、1974年5月初旬に盲腸で大正病院に10日間入院。 1975年、20歳の時に出演した関西テレビ『日曜ドキドキパンチ』で、関西テレビディレクターの上沼真平と出会う。1977年5月22日、8歳上の真平と結婚。親族・親類全員が反対する状況下での結婚だった。姉とのコンビを解消し、ラスベガスからカウアイ島へと渡る新婚旅行を経て、芸能界を引退する。義母は2007年(平成19年)に89歳で亡くなっている。真平の父・健吉は上沼が嫁ぐ前の1969年に亡くなっていて、大阪府箕面市の18坪の家に真平と姑と3人で暮らすことになる。
※この「1971年 - 1977年」の解説は、「上沼恵美子」の解説の一部です。
「1971年 - 1977年」を含む「上沼恵美子」の記事については、「上沼恵美子」の概要を参照ください。
- 1971年・1977年のページへのリンク