1970年代末から80年代前半
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 20:25 UTC 版)
「テクノポップ」の記事における「1970年代末から80年代前半」の解説
テクノポップという言葉は、1978年、大阪で『ロック・マガジン』を発行していたロック評論家の阿木譲が、クラフトワークのアルバム『人間解体』のレビューで使ったのが初出とされている。この造語を気に入った坂本龍一がさまざまな媒体に出演して使ったことにより、一般に広まったといわれている(坂本の参加していたイエローマジックオーケストラ(YMO)は1978年11月にファーストアルバムを世に出し、1979年5月にアメリカ発売、8月にアメリカ公演、10月にワールドツアーを実施し、そのライブは日本ではNHKで放送されていた)。渋谷陽一はNHK-FMで、クラフトワークの「トランス・ヨーロッパ・エクスプレス」や「ザ・ロボッツ」をオンエアした。1980年代には、アフリカ・バンバータがクラフトワークを使用した曲を発表した。 1979年からYMOブームが起きると、YMOに続く「テクノ御三家」として同年にP-MODEL、ヒカシュー、プラスチックスが紹介された。椹木野衣は個人的見解としてテクノポップが、日本にとって1960年代から1970年代前半の文化の暗さや重さ(例:学生運動、劇画など)から脱却するための一つの方法論との見方を提示している。 ブーム期のテクノポップ・バンドとしては他に、「恋のベンチ・シート」をヒットさせたジューシィ・フルーツ(ヒカシューと同じく近田春夫がプロデュースしている)、小川美潮が在籍したチャクラ、大橋純子&美乃家セントラル・ステイションでファンク曲を作曲したこともある土屋昌巳の一風堂などがいた。高木完やサエキけんぞうもテクノ・ポップ・グループを結成したが、ラジオではオンエアされず、不発に終わってしまった。 また、アイドルや芸能人による『テクノ歌謡』もリリースされた。これらの曲の一部は、坂本龍一らなどがプロデュースしている。ブームを担った中核的なレーベルとしては、YMOや戸川純らが在籍したアルファレコードの¥ENレーベルなどがある。 この頃来日したクラフトワークは「テクノポップ」と言う言葉を気に入り1983年にリリースを予定したアルバムタイトルを『TECHNO POP』と題したがお蔵入りとなり、1986年に『エレクトリック・カフェ』と改題してリリースした。この中に「TECHNO POP」と題する曲が収録されている。バグルスは1979年に「ラジオ・スターの悲劇」のヒットを出したあと、1980年に発表したシングル「CLEAN CLEAN」のB面に「TECHNOPOP」という曲を収録しており、アルバム『THE AGE OF PLASTIC』の1999年リマスター版にも追加収録されている。1980年代前半の欧米では、ゲイリー・ニューマン、M、リップス、ヒューマン・リーグ、ソフト・セルらが「シンセ・ポップ」の全米ヒットを送り出した。ゲイリー・ニューマン「カーズ」、M「ポップ・ミューヂック」、リップス「ファンキータウン」、ヒューマン・リーグ「ドント・ユー・ウォント・ミー」、ソフト・セル「テインテッド・ラブ」、オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク(OMD)「エノラ・ゲイの悲劇」。ウルトラヴォックス「ニュー・ヨーロピアンズ」、ユーリズミックス「スウィート・ドリームス」、当時の代表的なヒット曲である。ヤーブロウ&ピープルズの「ドント・ストップ・ザ・ミュージック」(1981年)はボーカルがソウルフルなため、テクノ・ポップというよりも、R&Bグループがテクノを取り入れたものと、とらえた方がよい。
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