1969年-1979年: 結成および初期
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1969年、いとこ同士でギター奏者のランディ・オウエン、ジェフ・クック、ベース奏者のテディ・ジェントリーの3人は生まれ育ったカントリー・ミュージックの影響を強く受けているアラバマ州フォート・ペインで結成された。オウエンとジェントリーはアラバマ州北部のルックアウト・マウンテンの別々の綿花農場で育ち、共にギター演奏を学び、6歳になる前に教会で歌っていた。1960年代、ジェントリーとオウエンはポップからブルーグラスまで幅広く数々のグループで活動した。1969年、ク ックが加入して「ヤング・カントリー」を結成し、クリスマス前後に最初の演奏を行なった。クックも数々のバンドで活動し、ロックンロールディスクジョッキーとしても活動していた。3人はそれぞれがヴォーカルを担当し、他のいとこのジャッキー・オウエンがドラムを担当して最初のラインナップが完成した。彼らの最初の演奏は高等学校でのタレント・コンテストでマール・ハガードの曲を演奏し、優勝して『グランド・オール・オープリー』のチケットを獲得した。しかしオウエンはまだ高校生、クックはウェスタン・エレクトリックに勤務、ジェントリーはカーペット設置の仕事で忙しく、なかなか音楽活動ができなかった。クックは大学に進学し、オウエンは軍に入隊したためさらに音楽活動から遠のいた。 1972年、ドラム奏者にベネット・ヴァータニアンを加え、プロのバンドとなり「ワイルドカントリー」と改名した。この時期、テーマ・パークのキャニオンランドで定期的に演奏した。このテーマ・パークにはジェリー・ウォレス、ボビー・ベア 、ナーヴァル・フェルツなどのスターが出演してワイルドカントリーは彼らのバックバンドを務め、この演奏の後に1時間のダンス音楽を演奏した。その後演奏する機会も減り、クックがアラバマ州アニストンで市の職員に就く予定がなくなってしまった。オウエンはジャクソンヴィル州立大学で英文学を学び、クックは電子系の職に就いた。3人はアニストンの月56ドルのアパートに同居し、夜や週末に演奏を続けた。1973年、プロのバンドとして成功するため、アメリカ合衆国南東部のバーを演奏してまわった。3月、3人はサウスカロライナ州マートルビーチに転居し、「バウリー」というクラブで週6日演奏した。特にレーナード・スキナード、マール・ハガードのカバー曲でチップを稼いだ。レコード会社との契約がまだ取れなかったため、自身でレコーディングを行なった。フォート・ペイン銀行から4千ドルを借金し、演奏の際に売るためのアルバムをレコーディングした。ヴァータニアンが脱退し、4人のドラム奏者が交代で演奏していたが、1974年にリック・スコットがドラム奏者として定着した。 数々のレコード会社にデモ・テープを送ったが返事は少なく、ようやくGRTレコードとレコード1枚の契約を取り付け、1977年にデビュー・シングル『I Want to Be with You 』を出版した。GRTはソングライターとして彼らに興味を持ち、「アラバマ・バンド」に改名するよう説得し、のちに「アラバマ」に改名した。曲はチャート入りせず、翌年GRTは破産申告した。GRTとの契約の中には、他のレコード会社との契約を禁じる項目が入っていたことにこれまで気付かなかった。その後2年間、この契約を買い取るために資金を調達し、1979年、再度レコーディングを行なうことができた。自身で『Wildcountry 』(1976年)、『Deuces Wild 』(1977年)、『Alabama Band No. 3 』を出版し、1年間で300公演をツアーした。ラジオでシングル『I Wanna Come Over 』をかけてもらうため、ラジオ・プロモーターを雇い、番組ディレクターやディスクジョッキーに手書きの手紙を送った。ダラスを基盤とするMDJレコードと契約することとなった。スコットが脱退し、ロック・ドラム奏者のマーク・ハーンドンが加入し、のちに彼ら独特のサウンドをもたらすこととなった。『I Wanna Come Over 』は彼らにとって初めてラジオでヒットし、『ビルボード』誌のカントリー・チャートでトップ40にランクインした。
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