1873年-1914年
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「オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会」の記事における「1873年-1914年」の解説
OAGの創設については次のように語られている: 「1873年3月22日、皇帝ヴィルヘルム1世の誕生日に、江戸と横浜に住んでいたドイツ人たちはドイツ東洋文化協会を設立するために集まった。協会の目的は、個人の努力のための共通センターを作ることで、それにより一方では研究を活発にし、他方ではその結果をより多くの人たちが利用できるようにする事だった。」 OAGはまた東アジア研究を自らの課題とし、お雇い外国人として日本に来ていたドイツ人学者の支援を受けることができた。最初の数10年間はドイツ大使が会長を務めたが、それは施設の手配や提供において地位を重視していた日本政府と交渉するうえで大変役立った。これにより最初の大使は政治的なものを超えて日本に興味を持った。 OAG会報 (Mitt(h)eilungen der OAG) は自然科学者、医師、弁護士からの投稿が主であったが、民俗学に興味を持つ読者も多かった。彼らは会員や日本人から贈られた品々を展示する小さな博物館として、増上寺の隣の寺の部屋を借りていた。しかし1878年には資金の面から中止され、日本に独自の博物館が創設されたこともあり、博物館は廃止された。コレクションはライプチヒ民族博物館(英語版)に寄贈されたが、これはプロイセン以外の博物館であることをアピールする狙いもあった。1885年に協会が移転し、集会所として建物を持つようになると、社交的な交流の機会も増えてきた。 協会での会話はドイツ語だったので、日本人の会員は登録簿にすこしずつしか増えていないが、そこには桂太郎首相や外交官の青木周蔵もいた。1874年7月に三宅秀(B. Miyake)が日本の産科学の論文を発表した。また名誉会員で医師の青山胤通 (1859-1917) の記念碑が、麴町の敷地に建てられている。 1900年以降は、重点が人文科学と社会科学に移行した。さらに1907年からはドイツ大使が会長に就かず、名誉会長の地位に移行した。大使館との連携はその後も継続された。例えばDietrich von Klitzing (1940年没) は妻と共に、1912年にインドネシアからやってきて東京を訪問し、Graf von Rex(ドイツ語版)大使からOAGの存在を聞かされた。Klitzingはその際に15,000マルクを寄付し、さらに寄付を募った結果、新しい会館の建設費用を準備することができた。1914年に大使館の隣接地が獲得され、大きな建物の計画が出来上がった。しかしその時に第一次世界大戦が勃発した。
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