1615年夏のブラウンシュヴァイク攻囲戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/15 14:35 UTC 版)
「ゲッシェ・マイブルク」の記事における「1615年夏のブラウンシュヴァイク攻囲戦」の解説
ブラウンシュヴァイク=リューネブルクやブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルの諸公は、中世から近世にかけて何度もブラウンシュヴァイク市を所領に組み込もうとしており、1615年夏の攻撃もそのような試みの一つであった。同市は1615年7月22日から11月2日まで、公の軍に攻囲される。この時、その脅威はそれまでよりも大きいように思われた。なぜならブラウンシュヴァイク市は、所属していたハンザ同盟諸都市からの解囲軍(ドイツ語版)を期待できなかったからである。 9月初頭には、ギーアスベルクやヌスベルク(ドイツ語版)などの砦から砲撃を受けるようになり、包囲された市民の状況はますます危機的になる。それらは市の中心部よりも標高が高い場所にあったので、敵軍は遮られることなく砲撃ができたのである。こうして市は大損害を被り、多くの住民が殺された。さらに敵軍は数多くの塹壕を通じて、市壁への接近とその破壊、さらに市内への突入を試みた。 9月13日の夜には、市の征服は間近に迫ったように思われた。公の軍は南東の市域(ドイツ語版)、アルテヴィーク(ドイツ語版)のマグニ門からブラウンシュヴァイクの防衛施設(ドイツ語版)へ突撃する準備を整える。そのため女性を含むブラウンシュヴァイクの市民全員に対し、防衛への協力が呼びかけられた。そして実際、多くの女性がこの呼びかけに応じ、積極的に戦闘行為に参加するべく自ら武器を手に取ったのである。その中で最も有名なのは、言い伝えに拠れば市壁の上で剣とマスケット銃を手に寄せ手と戦い多くの者を討ち取ったのみならず、共闘する他の女性たちをも自身に倣うよう繰り返し鼓舞し続けた、34歳のマイブルクであった。 攻囲中のフリードリヒ・ウルリヒ公には、下記の報告が届く。 「一人の女性が勇敢に防戦し、市壁の上から投石と剣をもって攻め寄せる我らに大いなる損害を与え、自らに利する胸甲も帯びず全く堂々と市壁に立ち、(ブラウンシュヴァイクの)兵士たちに呼びかけたのです。『安心してただ撃ち続け、勇敢に戦いなさい。私が貴方がたの傍に居る限り、危険はありません』と。准尉(英語版)の報告に拠ればマスケット銃で500発の弾を彼女に浴びせましたが、全て外れました。あれはペテロか天使に違いありません。」 – Wilhelm Görges, Ferdinand Spehr: 『Vaterländische Geschichten und Denkwürdigkeiten der Vorzeit der Lande Braunschweig und Hannover』、 P. 471、 P. 474。 遂にこの攻囲は失敗し、数日後にはゾルムス=レーデルハイム伯フリードリヒ(英語版)率いるハンザ=ネーデルラント連合軍が市を解囲するべく来援した。そして1615年10月14日にはブラウンシュヴァイクの包囲を破る。同年11月2日、フリードリヒ・ウルリヒ公は攻囲を断念し、本拠地のヴォルフェンビュッテル(英語版)に退いた。この紛争はリューベック市長(ドイツ語版)、ハインリヒ・ブロッケス1世(ドイツ語版)の仲裁によって同年12月、最終的に調停された。
※この「1615年夏のブラウンシュヴァイク攻囲戦」の解説は、「ゲッシェ・マイブルク」の解説の一部です。
「1615年夏のブラウンシュヴァイク攻囲戦」を含む「ゲッシェ・マイブルク」の記事については、「ゲッシェ・マイブルク」の概要を参照ください。
- 1615年夏のブラウンシュヴァイク攻囲戦のページへのリンク