1614年:オランダ船による発見と命名
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「ヤンマイエン島」の記事における「1614年:オランダ船による発見と命名」の解説
ヤンマイエンの発見は、1614年夏のこととされる。しかし、その状況に関する情報は錯綜しており、この年の夏の1か月ほどの間に、3つの探検隊によってそれぞれ別個に発見の主張がなされている。 ダンケルクのイングランド人ジョン・クラーク(John Clarke)に雇われて捕鯨航海を行っていたオランダ人フォップ・ヘリッツ(Fopp Gerritsz)は、1614年6月28日にこの島を発見し、イザベラ(Isabella)島と命名したと、のちに(1631年になってから)主張している。 1614年1月に、オランダ東インド会社に倣い、オランダ北方会社 (Noordsche Compagnie) が設立されてオランダ人の北極海での捕鯨事業を支援している。アムステルダムとエンクホイゼンの商人が出資した2隻の船、ヤン・ヤコブソーン・マイ船長のハウデン・カット(Gouden Cath、「金猫」)号とヤコブ・デ・ハウウェナー(Jacob de Gouwenaer)船長のオラニエンボーム(Orangienboom「オレンジの木」)号は、1614年7月にこの島に到達して「ヨリス氏の島」(Mr. Joris Eylant)と名付けた。この名は、彼らに同行していたオランダ人地図製作者 ヨリス・カロルス の名にちなんだもので、カロルスはこの島の地図を製作している。 ヤン・ヤコブソーン・マイたちがこの島に来たとき、デルフトの北方会社株主たちが出資したヤン・ヤンス・カークホフ(Jan Jansz Kerckhoff)船長のクライン・スウェントヘン(Cleyn Swaentgen、「小白鳥」)号がすでに到着していたということを認めている。オラニエ公マウリッツにちなんでこの島をマウリッツ島(Maurits Eylandt)、あるいはマウリティウス(Mauritius)と名付けてオランダの議会に発見を報告したのはデルフトの商人たちであったろうと、ヤン・ヤコブソーン・マイたちは推測している。しかしながら、デルフトの商人たちはこの島の発見を隠し、自分たちの利益を求めるために1615年にはこの島を引き揚げている。両社のあいだで紛争が発生し、1617年に両社がともに島を捕鯨基地とするという形でようやく決着した。 1615年にはイングランドの探検家ロバート・フォザビーが島に上陸した。フォザビーはこの島を初めて発見したと考え、島をサー・トーマス・スミス島(Sir Thomas Smith’s Island)、火山をハクルイト山(Mount Hakluyt)と名付けた。このほか、ジャン・ヴロリック はこの島に「リシュリュー島」Île de Richelieu という名を付けている。 この島は、ウィレム・ブラウ(英語版)が刊行した1620年版のヨーロッパ地図に初めて登場したが、ここでヤンマイエン(Jan Mayen)の名が与えられた。「発見者」の一人であるヤン・ヤコブスゾーン・マイの名からとられたものである。ブラウはまた、有名なゼースピーヘル(Zeespiegel)地図(1623年)においてこの島の詳細な地図を掲載したが、そこでもヤンマイエンの名を用いている。こうして、この島の名は「ヤンマイエン島」として定着することとなった。
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