1617年 - 1623年とは? わかりやすく解説

1617年 - 1623年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/10 00:26 UTC 版)

国王一座」の記事における「1617年 - 1623年」の解説

ネイサン・フィールドによる国王一座への貢献としては、戯曲マルタ島騎士』 ("The Knight of Malta") をボーモント&フレッチャー共作したことなどがあげられるボーモント&フレッチャー最初の二折判著作集1647年)には、この作品国王一座によって初演されたさいの主要なキャスト一覧が記載されており、バーベッジフィールド自身のほか、ジョン・アンダーウッド、リチャード・シャープ、ヘンリー・コンデル、ロバート・ベンフィールド、ジョン・ローウィン、トマス・ホルコムらの名前が見られるシャープとホルコムは劇団少年俳優である)。この初演日付不明だが、フィールド加入した1616年からバーベッジ死去する1619年のあいだであることは確かである。フィールドはこの時期ジョージ・チャップマン作 "Bussy D'Ambois" でも主演している。この作品長らく国王一座レパートリーとなり、フィールドの後はテイラー主演務めた1619年はこの劇団歴史上重要な年である。国王一座拠点となっていたブラックフライヤーズ座の建っていた高級住宅地ブラックフライヤーズの近隣住民は、自分たちの住居近く劇場存在することを快く思っていなかった。その多く裕福政治的社会的に影響力大きかったこの住民たちが、観客たちの雑踏によって彼らが教会へ通うのが妨げられているとして、劇場引き起こす交通問題に対して不平の声を高めたのである(この結果すべての劇団四旬節のあいだだけ一切活動停止するよう要求されたが、この条件はまった軽んじられ無視しても罰を受けることはほとんどなかった)。こうした地元の不満の声を退けるため、国王一座1619年3月27日付で新し勅許取得した。この勅許状において、当時共同株主12名の名があげられている。バーベッジ、ローウィン、ヘミングスコンデルといった古参加え、ウィリアム・エクルストン、ロバート・ゴフ、リチャード・ロビンソン、ニコラス・トゥーリイ、ジョン・アンダーウッドらの中堅、ネイサン・フィールド、ロバート・ベンフィールド、ジョン・シャンクといった新参がその顔ぶれである。 ジョン・シャンクはダンスドタバタ喜劇を得意とし、その後国王一座主要な道化役者となったシャンク国王一座参加する前から、ペンブローク伯一座女王一座などいくつかの劇団数十年にわたる経験をつんだベテラン俳優である。1610年から1613年までは海軍大臣一座にも在籍していた。シャンク1615年看板俳優ロバート・アーミンが死去したあとにはその地位受け継いだ考えられる。またトマス・ホルコムやジョン・トンプソン、トマス・ポラード、ジョン・ハニーマンといった見習い指導役にもあたった。ロバート・ゴフは、1591年『七つの大罪』 ("The Seven Deadly Sins") に少年俳優として出演したころからおそらく国王一座当時宮内大臣一座)の俳優たちと関わりをもっていた。ゴフ1603年にトマス・ポープから遺言書によって遺産受け取っているほか、1605年にはオーガスティン・フィリップスの遺言書にも署名しており、おそらくその妹と結婚した推定されている。ゴフ俳優として名を上げることはなく、どのような役を演じたかについての記録はほとんど残っていない。 1619年3月13日名優リチャード・バーベッジ死去した同年4月ないし5月に、バーベッジ抜けた穴を埋めるためチャールズ王子一座からジョーゼフ・テイラーが移籍しシェイクスピア創作しバーベッジ主演してきたハムレットその他の重要な役を演じることとなった1619年5月宮内大臣であった第3ペンブローク伯ウィリアム・ハーバート同僚宛てた書簡の中で、他の人々観劇行っているが、自分は「情にもろいので、長く贔屓にしてきたバーベッジがいなくなって間もないのに、芝居を見に行く気にはとてもなれないと書いている。 1619年8月国王一座政治的なテーマ扱っているため論議の的となったフレッチャーとマシンジャーの共作 "Sir John van Olden Barnavelt" の初演行なった。またフレッチャーの "The Humorous Lieutenant" を上演したのも、バーベッジ失った直後のこの時期である。ボーモント&フレッチャーの二折判著作集1647年記載出演者一覧では、コンデル、ローウィン、シャープ、ベンフィールド、テイラー、エクルストン、アンダーウッド、ポラードの名が見られるテイラーコンデルの名がともにあげられている出演者一覧はこれ以外に現存していない。この後まもなく、コンデル舞台去った考えられている。 翌1620年国王一座さらなる打撃見舞われた。ネイサン・フィールドが33歳若さ没したのであるフィールド代わる株主はジョン・ライスが引き受けたが、この人物は劇団歴史中においても詳細明らかでない人物である。ライス以前から少年俳優として活動しており、1607年から1610年のあいだはヘミングスのもとで見習い修行をしていた。1611年エリザベス一座旗揚げをしたさいには、創設メンバー1人となっている。1619年には国王一座復帰し、 "Sir John van Olden Barnavelt" などに出演しているが、1625年ないし1626年には舞台退き教会新たな職を見出している。ヘミングス1630年作成した遺言書において、ライスをサザックの教区聖職者呼んでおり、管財人指名している。 フレッチャー合作者たち、とりわけマシンジャーとの合作1619年から1622年国王一座レパートリー大部分占めている。フレッチャー単独作 "Women Pleased" やフレッチャーとマシンジャーの合作 "The Custom of the Country" 、 "The Little French Lawyer" などがこの時期国王一座によって上演されている。ボーモント&フレッチャー著作集出演者一覧では、これら3作とも同じ俳優の名(テイラー、ローウィン、アンダーウッド、ベンフィールド、トゥーリイ、エクルストン、少年俳優リチャード・シャープとトマス・ホルコム)が連ねられている。 1621年ごろ、国王一座ジョン・ウェブスター作『マルフィ公爵夫人』を再演した。この戯曲2年後1623年にはじめて出版されたが、この本に国王一座による1614年初演時と1621年再演時の出演者一覧両方とも収録されている(再演1619年バーベッジの死と1623年のトゥーリイの死のあいだのことである)。これらを比較することにより、国王一座変化した面と安定していた面とが同時に見て取れる1614年1621年Ferdinand リチャード・バーベッジ ジョーゼフ・テイラー (Joseph Taylor) Bosola ジョン・ローウィン 同左 Cardinal ヘンリー・コンデル リチャード・ロビンソン Antonio ウィリアム・オスラー ロバート・ベンフィールド (Robert Benfield) Delio ジョン・アンダーウッド 同左 Forobosco ニコラス・トゥーリイ 同左 Pescara ジョン・ライス (John Rice) 同左 Silvio トマス・ポラード (Thomas Pollard) 同左 Duchess リチャード・シャープ (Richard Sharpe) 同左 Mistress ジョン・トンプソン (John Thompson) 同左 Cariola ロバート・パラント (Robert Pallant) 同左 Doctor, etc. ロバート・パラント 同左公演において、トゥーリイとアンダーウッド狂人の役も兼ねている常任メンバー株主加え、4人の雇われ俳優少年俳優出演している。パラント、ポラード、シャープトンプソンその4人だが、パラントが3役以上を演じていることを含め1人2役がしばしば行なわれていたことが注目に値する。ジョン・トンプソンは1620年代通じて女性の役を演じ続けた。この時代国王一座共演したもう1人少年俳優にリチャード・バーチがいる。バーチ1616年から1619年にかけてジョンソンの『ヴォルポーネ』や『錬金術師』において女性の役を演じたフレッチャーとマシンジャーの合作 "The Sea Voyage" は、1622年6月22日宮廷祝典局長検閲経て上演許可下りている。ボーモント&フレッチャー著作集1647年)に抜粋されている出演者一覧には、ジョーゼフ・テイラーやウィリアム・エクルストン、ニコラス・トゥーリイ、ジョン・ローウィン、ジョン・アンダーウッドらの名が並んでいる。1622年12月26日(聖スティーヴンの日、ボクシング・デーとも)、国王一座フレッチャーとマシンジャーによるもう一つ共作 "The Spanish Curate" を宮廷上演した前掲書の一覧では、テイラー、ローウィン、トゥーリイ、エクルストン、トマス・ポラード、ロバート・ベンフィールドらが列記されている。喜劇役者のトマス・ポラードは雇われ俳優であって劇団共同株主ではなく明らかにジョン・シャンクの見習いであったことから、国王一座参加したのが1615年以降のことであったことが分かる1623年は、ヘミングスコンデルによって最初シェイクスピア全集戯曲選集)であるファースト・フォリオ編纂上梓された年である。このファースト・フォリオ冒頭には、シェイクスピア戯曲演じた26人の「主要な俳優」の一覧が掲載されており、過去30年間にわたる宮内大臣一座/国王一座主立ったメンバー綜合的名簿を知ることができる。1603年最初勅許に名をあげられていた8人(シェイクスピアバーベッジヘミングスコンデルフィリップス、カウリー、スライアーミン)に加え、ウィリアム・ケンプ、トマス・ポープ、ジョージ・ブライアン、ジョン・ローウィン、サミュエル・クロス、アレクサンダー・クック、サミュエル・ギルバーン、ウィリアム・オスラー、ネイサン・・フィールド、ジョン・アンダーウッド、ニコラス・トゥーリイ、ウィリアム・エクルストン、ジョーゼフ・テイラー、ロバート・ベンフィールド、ロバート・ゴフ、リチャード・ロビンソン、ジョン・シャンク、ジョン・ライスがそのすべてである。早世したサミュエル・クロスと同様、サミュエル・ギルバーンの生涯も謎に包まれており、詳細はほとんど知られていない。ギルバーンはオーガスティン・フィリップスの見習いであり、フィリップス1605年作成した遺言書では大きな遺産配分されていた。また「主要な俳優」に含まれていることからも、国王一座株主1人であったことはほぼ間違いないフィリップス死後劇団で跡を継いだのもギルバーンであった可能性があるが、いずれにせよその数年後にはギルバーンも死去している。 1623年いつしかベテラン道化役者ウィリアム・ローリイが国王一座加入して舞台生活の最後2年を同劇団で過ごすこととなり、翌年上演された "A Game at Chess" では太った主教の役を演じている。アン女王一座とその拠点劇場レッド・ブル座で主演俳優であったリチャード・パーキンスも1623年終わりごろに国王一座参加している。

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