1617年 - 1623年
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「国王一座」の記事における「1617年 - 1623年」の解説
ネイサン・フィールドによる国王一座への貢献としては、戯曲『マルタ島の騎士』 ("The Knight of Malta") をボーモント&フレッチャーと共作したことなどがあげられる。ボーモント&フレッチャーの最初の二折判著作集(1647年)には、この作品が国王一座によって初演されたさいの主要なキャスト一覧が記載されており、バーベッジやフィールド自身のほか、ジョン・アンダーウッド、リチャード・シャープ、ヘンリー・コンデル、ロバート・ベンフィールド、ジョン・ローウィン、トマス・ホルコムらの名前が見られる(シャープとホルコムは劇団の少年俳優である)。この初演の日付は不明だが、フィールドが加入した1616年からバーベッジが死去する1619年のあいだであることは確かである。フィールドはこの時期、ジョージ・チャップマン作 "Bussy D'Ambois" でも主演している。この作品は長らく国王一座のレパートリーとなり、フィールドの後はテイラーが主演を務めた。 1619年はこの劇団の歴史上重要な年である。国王一座の拠点となっていたブラックフライヤーズ座の建っていた高級住宅地ブラックフライヤーズの近隣住民は、自分たちの住居の近くに劇場が存在することを快く思っていなかった。その多くが裕福で政治的・社会的に影響力の大きかったこの住民たちが、観客たちの雑踏によって彼らが教会へ通うのが妨げられているとして、劇場の引き起こす交通問題に対して不平の声を高めたのである(この結果すべての劇団が四旬節のあいだだけ一切の活動を停止するよう要求されたが、この条件はまったく軽んじられ、無視しても罰を受けることはほとんどなかった)。こうした地元の不満の声を退けるため、国王一座は1619年3月27日付で新しい勅許を取得した。この勅許状において、当時の共同株主12名の名があげられている。バーベッジ、ローウィン、ヘミングス、コンデルといった古参に加え、ウィリアム・エクルストン、ロバート・ゴフ、リチャード・ロビンソン、ニコラス・トゥーリイ、ジョン・アンダーウッドらの中堅、ネイサン・フィールド、ロバート・ベンフィールド、ジョン・シャンクといった新参がその顔ぶれである。 ジョン・シャンクはダンスとドタバタ喜劇を得意とし、その後国王一座の主要な道化役者となった。シャンクは国王一座へ参加する前から、ペンブローク伯一座や女王一座などいくつかの劇団で数十年にわたる経験をつんだベテラン俳優である。1610年から1613年までは海軍大臣一座にも在籍していた。シャンクは1615年に看板俳優ロバート・アーミンが死去したあとにはその地位を受け継いだと考えられる。またトマス・ホルコムやジョン・トンプソン、トマス・ポラード、ジョン・ハニーマンといった見習いの指導役にもあたった。ロバート・ゴフは、1591年に『七つの大罪』 ("The Seven Deadly Sins") に少年俳優として出演したころからおそらく国王一座(当時は宮内大臣一座)の俳優たちと関わりをもっていた。ゴフは1603年にトマス・ポープから遺言書によって遺産を受け取っているほか、1605年にはオーガスティン・フィリップスの遺言書にも署名しており、おそらくその妹と結婚したと推定されている。ゴフは俳優として名を上げることはなく、どのような役を演じたかについての記録はほとんど残っていない。 1619年3月13日、名優リチャード・バーベッジが死去した。同年の4月ないし5月に、バーベッジの抜けた穴を埋めるためチャールズ王子一座からジョーゼフ・テイラーが移籍し、シェイクスピアが創作しバーベッジが主演してきたハムレットやその他の重要な役を演じることとなった。1619年5月、宮内大臣であった第3代ペンブローク伯ウィリアム・ハーバートは同僚に宛てた書簡の中で、他の人々は観劇に行っているが、自分は「情にもろいので、長く贔屓にしてきたバーベッジがいなくなって間もないのに、芝居を見に行く気にはとてもなれない」と書いている。 1619年8月、国王一座は政治的なテーマを扱っているため論議の的となったフレッチャーとマシンジャーの共作 "Sir John van Olden Barnavelt" の初演を行なった。またフレッチャーの "The Humorous Lieutenant" を上演したのも、バーベッジを失った直後のこの時期である。ボーモント&フレッチャーの二折判著作集(1647年)記載の出演者一覧では、コンデル、ローウィン、シャープ、ベンフィールド、テイラー、エクルストン、アンダーウッド、ポラードの名が見られる。テイラーとコンデルの名がともにあげられている出演者一覧はこれ以外に現存していない。この後まもなく、コンデルは舞台を去ったと考えられている。 翌1620年、国王一座はさらなる打撃に見舞われた。ネイサン・フィールドが33歳の若さで没したのである。フィールドに代わる株主はジョン・ライスが引き受けたが、この人物は劇団の歴史の中においても詳細の明らかでない人物である。ライスは以前から少年俳優として活動しており、1607年から1610年のあいだはヘミングスのもとで見習い修行をしていた。1611年にエリザベス姫一座が旗揚げをしたさいには、創設メンバーの1人となっている。1619年には国王一座へ復帰し、 "Sir John van Olden Barnavelt" などに出演しているが、1625年ないし1626年には舞台を退き、教会に新たな職を見出している。ヘミングスは1630年に作成した遺言書において、ライスをサザックの教区の聖職者と呼んでおり、管財人に指名している。 フレッチャーと合作者たち、とりわけマシンジャーとの合作が1619年から1622年の国王一座のレパートリーの大部分を占めている。フレッチャーの単独作 "Women Pleased" やフレッチャーとマシンジャーの合作 "The Custom of the Country" 、 "The Little French Lawyer" などがこの時期に国王一座によって上演されている。ボーモント&フレッチャー著作集の出演者一覧では、これら3作とも同じ俳優の名(テイラー、ローウィン、アンダーウッド、ベンフィールド、トゥーリイ、エクルストン、少年俳優のリチャード・シャープとトマス・ホルコム)が連ねられている。 1621年ごろ、国王一座はジョン・ウェブスター作『マルフィ公爵夫人』を再演した。この戯曲は2年後の1623年にはじめて出版されたが、この本には国王一座による1614年の初演時と1621年の再演時の出演者一覧が両方とも収録されている(再演は1619年のバーベッジの死と1623年のトゥーリイの死のあいだのことである)。これらを比較することにより、国王一座の変化した面と安定していた面とが同時に見て取れる。 1614年1621年Ferdinand リチャード・バーベッジ ジョーゼフ・テイラー (Joseph Taylor) Bosola ジョン・ローウィン 同左 Cardinal ヘンリー・コンデル リチャード・ロビンソン Antonio ウィリアム・オスラー ロバート・ベンフィールド (Robert Benfield) Delio ジョン・アンダーウッド 同左 Forobosco ニコラス・トゥーリイ 同左 Pescara ジョン・ライス (John Rice) 同左 Silvio トマス・ポラード (Thomas Pollard) 同左 Duchess リチャード・シャープ (Richard Sharpe) 同左 Mistress ジョン・トンプソン (John Thompson) 同左 Cariola ロバート・パラント (Robert Pallant) 同左 Doctor, etc. ロバート・パラント 同左 両公演において、トゥーリイとアンダーウッドは狂人の役も兼ねている。常任のメンバーや株主に加え、4人の雇われ俳優と少年俳優が出演している。パラント、ポラード、シャープ、トンプソンがその4人だが、パラントが3役以上を演じていることを含め、1人2役がしばしば行なわれていたことが注目に値する。ジョン・トンプソンは1620年代を通じて女性の役を演じ続けた。この時代に国王一座と共演したもう1人の少年俳優にリチャード・バーチがいる。バーチは1616年から1619年にかけてジョンソンの『ヴォルポーネ』や『錬金術師』において女性の役を演じた。 フレッチャーとマシンジャーの合作 "The Sea Voyage" は、1622年6月22日に宮廷祝典局長の検閲を経て上演許可が下りている。ボーモント&フレッチャー著作集(1647年)に抜粋されている出演者一覧には、ジョーゼフ・テイラーやウィリアム・エクルストン、ニコラス・トゥーリイ、ジョン・ローウィン、ジョン・アンダーウッドらの名が並んでいる。1622年12月26日(聖スティーヴンの日、ボクシング・デーとも)、国王一座はフレッチャーとマシンジャーによるもう一つの共作 "The Spanish Curate" を宮廷で上演した。前掲書の一覧では、テイラー、ローウィン、トゥーリイ、エクルストン、トマス・ポラード、ロバート・ベンフィールドらが列記されている。喜劇役者のトマス・ポラードは雇われ俳優であって劇団の共同株主ではなく、明らかにジョン・シャンクの見習いであったことから、国王一座に参加したのが1615年以降のことであったことが分かる。 1623年は、ヘミングスとコンデルによって最初のシェイクスピア全集(戯曲選集)であるファースト・フォリオが編纂・上梓された年である。このファースト・フォリオの冒頭には、シェイクスピアの戯曲を演じた26人の「主要な俳優」の一覧が掲載されており、過去30年間にわたる宮内大臣一座/国王一座の主立ったメンバーの綜合的な名簿を知ることができる。1603年の最初の勅許に名をあげられていた8人(シェイクスピア、バーベッジ、ヘミングス、コンデル、フィリップス、カウリー、スライ、アーミン)に加え、ウィリアム・ケンプ、トマス・ポープ、ジョージ・ブライアン、ジョン・ローウィン、サミュエル・クロス、アレクサンダー・クック、サミュエル・ギルバーン、ウィリアム・オスラー、ネイサン・・フィールド、ジョン・アンダーウッド、ニコラス・トゥーリイ、ウィリアム・エクルストン、ジョーゼフ・テイラー、ロバート・ベンフィールド、ロバート・ゴフ、リチャード・ロビンソン、ジョン・シャンク、ジョン・ライスがそのすべてである。早世したサミュエル・クロスと同様、サミュエル・ギルバーンの生涯も謎に包まれており、詳細はほとんど知られていない。ギルバーンはオーガスティン・フィリップスの見習いであり、フィリップスが1605年に作成した遺言書では大きな遺産を配分されていた。また「主要な俳優」に含まれていることからも、国王一座の株主の1人であったことはほぼ間違いない。フィリップスの死後に劇団で跡を継いだのもギルバーンであった可能性があるが、いずれにせよその数年後にはギルバーンも死去している。 1623年のいつしか、ベテランの道化役者ウィリアム・ローリイが国王一座に加入して舞台生活の最後の2年を同劇団で過ごすこととなり、翌年に上演された "A Game at Chess" では太った主教の役を演じている。アン女王一座とその拠点の劇場レッド・ブル座で主演俳優であったリチャード・パーキンスも1623年の終わりごろに国王一座へ参加している。
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