10月危機
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「カーロイ4世の復帰運動」の記事における「10月危機」の解説
10月21日、ベトレン首相は正統主義者との話し合いで「王政復古は権利として認められ、必要とされている」と述べた。これを受けてカールは「国事不関与声明は脅迫されて行ったもので、無効である。(中略)今は列強との復帰交渉を始める『絶好の機会』である」と宣言した。ただし、彼は武力による復帰には反対していた。10月23日にはブルゲンラント州の帰属を決める国民投票が行われる予定であり、王政派はこの際に混乱が起きると判断していた。王政派は混乱に乗じて政権を掌握するべきとカールにメッセージを送っており、22日にカールとその妻ツィタはハンガリー国内に入った。この際にもカールにはフランス首相ブリアンからの非公式な支援があった。ホルティはカールの声明を受けて、ハンガリーが破壊される危険性があるため権力を保持すると声明し、ハンガリー軍に対して忠誠を要求した。また、チェコスロバキア・ユーゴスラビア・ルーマニアで形成される小協商諸国は、カールの復帰拒否を再確認した。 カール支持者が越境して西ハンガリーに入り、軍の有力者レハールとオステンブルク=モラヴェク・ジュラ(Ostenburg-Moravek Gyula)はカールのために軍を動かし、カール支持のデモ行進を行った。10月23日朝、カールは装甲列車でブダペストに向かい、9時にはブダペスト近郊のKelenföld駅までに迫った。 しかしその頃、チェコスロバキア軍が動員を開始したという情報が入り、ブダペストに戒厳令が敷かれた。イギリス大使トマス・ホーラーはその日の午後にカールがブダペストに入ると予測し、「すべてが失われた」とロンドンに報告した。 しかし中立的な立場をとる将軍ヘゲドゥシュ・パール(Hegedűs Pál)は「カールが一人でホルティとベトレンに面会するべき」と薦めた。またこの行動は狂気の行いであり、「イギリスがハプスブルク家の復活を認めない」「カール軍を迎えれば、1週間以内にチェコスロバキア軍が攻撃する」と警告し、ホルティ軍との仲介を買って出た。このためカールの軍は一時停止した。 ヘゲドゥシュとカールが会談した後、ホルティとゲンベシュ・ジュラが駅に赴き、カールと会談を行った。カールはオーストリア=ハンガリー帝国の復活を語り、ゲンベシュはカールの軍が「オーストリアとチェコの冒険家」で構成されていると反論した。正午頃、駅に接近しようとしたオステンブルク=モラヴェク軍の先鋒隊が政府軍と衝突し、死傷者が発生した。この報告はカールの側近にも届き、彼らは内戦の発生を危惧した。このため無血入城を望んでいたカールは、内戦の可能性を警告していたホルティを信用するようになり、内戦回避の方向を模索し始めた。さらに軍の支持もホルティに集まった。 10月24日午前8時、ホルティ政府側からカールの軍の武装解除と退位宣言に署名するという条件で、カールと支持者の身の安全を保証するという要求が突きつけられた。カールがこの条件文を読み出したところ、流れ弾が列車に当たった。これは条件に腹を立てたレハールとオステンブルク=モラヴェクが最後の抵抗を試みたもので、急いでカールを車内に入れ、列車は西に向かって走り出した。 しかしカールは窓を開けて叫んだ。「レハール! オステンブルク! 止まれ! そしてここに戻れ! 私はこれ以上の戦いを禁じる! これ以上の戦いは無意味だ!」その後カールは条件文に署名し、降伏した。 ホルティの政府は危機から脱出し、多くの正統主義運動家が逮捕された。カール夫妻はエステルハージ・モーリツ伯爵の領地に一時保護された後、タタの修道院で逮捕され、軍の監視下に置かれた。
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