角尾学長の死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/22 00:57 UTC 版)
「長崎医科大学 (旧制)」の記事における「角尾学長の死去」の解説
角尾晋学長は、被爆の直前、東京出張からの帰途の8月7日、被爆翌日の広島を歩いて惨状を目の当たりにし、翌8日医大に帰任してその詳細を学生・教職員に報告していた。長崎での被爆時には角尾学長は内科病棟で診察中であったが、爆心地方面に近い北側の窓から爆風の直撃を受け重傷を負い、8月22日避難先の防空壕で死去した。角尾学長のほかには附属医院長の内藤勝利教授が圧死、附属医専部長の高木純五郎教授も重度の急性原爆症に冒されほどなくして死去した。同じく勤務中被爆したものの比較的軽傷で角尾から後事を託された古屋野宏平・調来助両教授は、それぞれ学長事務取扱、附属医院長となり、大学の再建および被爆者の治療が進められた。とくに放射線科の永井隆助教授は自らも重傷を負いながら8月12日以降「救護班」を組織して傷ついた市民に対する医療活動を進め、9月20日彼自身が一時昏睡状態に陥り解散をよぎなくされるまで活動を続けた。この活動の記録は10月、危機を脱した永井により『原子爆弾救護報告書』にまとめられて医大に提出され、被爆直後の実態や初期の医療活動を知るための貴重な資料となっている。
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