斎藤宏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/04 14:19 UTC 版)
基本情報 | |
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国籍 |
![]() |
出身地 | 群馬県 |
生年月日 | 1928年11月27日(95歳) |
身長 体重 |
173 cm 64 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 内野手 |
プロ入り | 1950年 |
初出場 | 1950年 |
最終出場 | 1955年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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斎藤 宏(さいとう ひろし、1928年11月27日 - 没年不明)は、群馬県[1]出身の元プロ野球選手。ポジションは三塁手。
来歴・人物
桐生中学からアマチュア野球の全桐生を経て、1950年に東急フライヤーズに入団[1]。1年目から三塁手のレギュラーを獲得し、118試合に出場した。1952年には108試合に出場し、打率.301とチームの中でトップとなる打率を記録し、リーグでも7位の記録だった[1]。翌年も100試合以上の試合に出場するが打撃成績は振るわず、1955年は12試合しか出場できずこの年に引退した[1]。
引退後はジャニーズ事務所に社員として在籍したが、プロ野球選手経験を買われ、フジテレビジョンの手を離れた後も引き続き同社傘下で活動を継続した女子野球クラブチーム『ニューヤンキース』の3代目監督を務めていた。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1950 | 東急 東映 |
118 | 456 | 439 | 49 | 126 | 25 | 1 | 7 | 174 | 46 | 20 | 4 | 9 | -- | 8 | -- | 0 | 41 | 10 | .287 | .300 | .396 | .696 |
1951 | 99 | 396 | 364 | 22 | 89 | 12 | 1 | 5 | 118 | 26 | 14 | 5 | 13 | -- | 15 | -- | 4 | 29 | 8 | .245 | .282 | .324 | .606 | |
1952 | 108 | 394 | 372 | 40 | 112 | 19 | 2 | 4 | 147 | 49 | 6 | 6 | 7 | -- | 12 | -- | 3 | 28 | 9 | .301 | .328 | .395 | .723 | |
1953 | 109 | 390 | 366 | 23 | 77 | 11 | 1 | 1 | 93 | 19 | 13 | 5 | 7 | -- | 14 | -- | 3 | 37 | 7 | .210 | .245 | .254 | .500 | |
1954 | 102 | 302 | 279 | 13 | 52 | 10 | 1 | 0 | 64 | 13 | 0 | 3 | 9 | 0 | 13 | -- | 1 | 26 | 6 | .186 | .225 | .229 | .455 | |
1955 | 12 | 17 | 17 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | .118 | .118 | .118 | .235 | |
通算:6年 | 548 | 1955 | 1837 | 148 | 458 | 77 | 6 | 17 | 598 | 153 | 53 | 23 | 45 | 0 | 62 | 0 | 11 | 165 | 40 | .249 | .278 | .326 | .604 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 東急(東急フライヤーズ)は、1954年東映(東映フライヤーズ)に球団名を変更
背番号
- 12 (1950年 - 1954年)
- 59 (1955年)
- 1 (1955年)
脚注
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 斎藤宏 - NPB.jp 日本野球機構
齋藤宏
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齋藤 宏(さいとう ひろし、1944年(昭和19年)3月29日 - )は、日本の銀行家。みずほコーポレート銀行元・頭取。東京地下鉄社外監査役[1]。
人物
京都大学経済学部卒業後、日本興業銀行に入行。興銀時代の部下に楽天会長兼社長の三木谷浩史がいる。
2002年、みずほコーポレート銀行初代頭取に就任した。2005年、TBSと楽天の経営統合を巡る対立が起きたが、この収拾のために両者の仲介役として活躍した。2009年度から義務付けられた役員報酬の開示制度では、1億2300万円の役員報酬を得ていることが公表された。
2007年に、改正貸金業法による過払金処理のため債務超過となったオリエントコーポレーションに対し、「オリコを切ってしまえ。」と発言。その後、2008年7月発売の雑誌フライデー(講談社)にて、齋藤がテレビ東京所属の経済担当の女性記者と東京・麻布の寿司屋で食事をした後、近くの路上で熱いキスを交わしたと報じられた。オリエントコーポレーションは、旧第一勧業銀行と提携ローンを行うなど結びつきが強く、みずほグループ内の旧第一勧業銀行派閥によるリークと囁かれた[2]。
7月22日、全国銀行協会会長・杉山清次(みずほ銀行頭取)は定例記者会見で齋藤と女性記者が不倫関係にあったと齋藤より説明を受けたとし、この件について「誠に遺憾である」とコメントした。また、同日の閣議終了後の記者会見で金融担当大臣・渡辺喜美も、「取材対象になっているわけだから、メディアとの付き合いは間合いの取り方が重要だ」と語った[3]。死去。
略歴
- 1962年 東京教育大学附属駒場高等学校卒
- 1966年 京都大学経済学部卒業後、日本興業銀行(興銀)入行
- 1994年 同取締役営業第六部長
- 1995年 同取締役東京支店長
- 1997年 同常務取締役
- 1999年 同常務取締役コーポレートバンキングユニット長
- 2000年 みずほホールディングス取締役兼常務取締役執行役員(大企業・金融法人ビジネスユニット長)
- 2002年 みずほコーポレート銀行頭取
- 2006年 テレビ東京社外監査役に就任
- 2009年 みずほコーポレート銀行会長
- 2010年 みずほフィナンシャルグループ特別顧問
- 2011年 特別顧問を退任[4]
脚注
- ^ 役員一覧 東京メトロ 2019年10月24日閲覧
- ^ 「みずほ銀、暴力団融資問題の“火種”オリコめぐる、旧3行抗争の歴史と変わる勢力図」 ビジネスジャーナル2013.10.09
- ^ みずほCB頭取、テレ東女性記者との不倫関係認める、夕刊フジ、2008年7月23日
- ^ みずほフィナンシャルグループ特別顧問の退任について (PDF) 株式会社みずほフィナンシャルグループ 2011年6月10日
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固有名詞の分類
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