黒田家入りとは? わかりやすく解説

黒田家入り

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/13 10:23 UTC 版)

黒田長溥」の記事における「黒田家入り」の解説

文政5年1822年)、第10代福岡藩主・黒田斉清正室宝林院(二条治孝の娘)の娘・純姫と婚姻、婿嗣子となる。養父同様、将軍徳川家斉偏諱授かって黒田斉溥称した家斉は斉溥からみて養父伯父、また姉の広大院家斉御台所であることから義兄にあたる)。天保5年1834年11月6日、斉清の隠居により家督相続した就任後実父の重豪に倣って近代化路線推し進めた。現在は歓楽街有名な中洲一部である博多岡崎新地に、精練所と反射炉建設した次いで見込みのある藩士積極的に出島派遣し西洋技術習得に当たらせた。藩士たちの一部から福岡県最初時計屋写真館を開く者が現れた。蘭癖称された斉溥の西洋趣味はこれに留まらずオランダ人指導の下、蒸気機関の製作にも取り組んだ。他にも医術学校創設種痘実施領内での金鉱炭鉱開発推進したが、鉱山関連に関して様々な困難や妨害遭い当時日本における石炭使った産業育成しようとしたが、当時技術それほど進んでおらず道半ばであった嘉永元年1848年11月伊勢津藩主・藤堂高猷三男・健若(のち慶賛、長知)を養嗣子とする。嘉永3年1850年)、実家島津家相続争いお由羅騒動)に際し、斉彬派の要請に応じて老中阿部正弘宇和島藩主・伊達宗城福井藩主・松平慶永らに事態の収拾求め、翌嘉永4年1851年)にその仲介努め、斉彬の藩主相続決着させた。

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